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先週みたテレビと「みんな」(3月13日~19日)

古舘伊知郎ショー~THE・マッチメイカー~』(3月18日)

 

 昨年『笑点』の司会を勇退し、断続的に入院しつつも落語を続ける桂歌丸

 昨年『報道ステーション』を降り、バラエティ番組に復帰した古舘伊知郎

 先週みたテレビで2人は次のように語り合っていた。

 

桂歌丸「人によって間は全部ちがいます。ですから、ワタクシたちの商売、自分の間をはやくこしらえた人が勝ちになります。噺はいくらでも着せることができます。ところが間を教えることはできないんです」

古舘伊知郎「着せることはできるけど、着こなしまで教えられないと」*1

 

 噺はいくらでも覚えさせること、「着せる」ことができる。

 けれども、それを自分の「間」で演じること、「着こなし」を教えることは困難だ。

 自分の言葉が「みんな」に届くためには自分の「間」を身につける必要があるけれど、

 それは自分で模索し発見しなければいけない。

 

 最近になって進退に悩んでいるとも語った齢80の噺家は、そのように語った。

 

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バズリズム』YTV(3月16日)

 

 だけれど、自分の言葉を届ける先にいる「みんな」に、

 ときに自分のほうが凌駕されることがある。

 

 久しぶりに日本で本格的な音楽活動をしている小沢健二

 先週のテレビで90年代の自身について次のように振り返っていた。

 

小沢健二「今だから言えると思うんですけど、やっぱり(当時は)マネされるっていうか、みんなが(自分と)おんなじ格好したりとかすると、こういうふうに個人的にもってるものがどんどん消費されて、はいオザケンはこういう感じ、次行こう、みたいに、どんどん食われてるみたいな感じはすごいありましたね」

バカリズム「ボクもだってオザケンさんの影響でダッフルコート買いましたもんね。ごめんなさい」

小沢「(笑)いま考えたらホントに光栄なことだし、なんていい時だったんだろうって思うんですけど、でもそのとき自分がそうされるっていうのは、正直言ってやっぱり怖いは怖いですよ」*2 

 

 90年代、小沢健二は「スターになるっていうことで投資をされている身」*3で、

 実際にスターだった。

 そんな小沢が着ていたもの、ダッフルコートだったりボーダーだったり、

 そういうものを「みんな」がマネて着ていた。

 いや、当時の小沢健二をぼくはリアルタイムでフォローしていなかったので、

 そういうことだった「らしい」という話なのだけれど。

 でも、当時ダッフルコートを「着こなし」た人は、そう多くはなかったのだろう。 

 

 とにもかくにも、当人にしてみれば、

 それは自分が「どんどん食われてるみたいな感じ」で、怖いことでもあった。

 日本から一旦距離をとった理由について、小沢は以前、

 もとからインプットがしたい人間なので、アウトプットばかりの活動は無理だった、

 というようなことを言っていたけれど*4

 それは「みんな」に自分が食べつくされて痩せ細ってしまうことの回避、

 と言い換えられるのかもしれない。

 

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 他方で、ダッフルコートを「着こなし」ていたかどうかはともかく、

 小沢の立場からすれば自分を食べようとする「みんな」の1人であったバカリズムは、

 かつて別の番組で次のようなことを言っていた。

 

バカリズム「オレはトツギーノっていうネタで、まずいろんなテレビに出させてもらったんです。で、オレは、ちょっともうトツギーノっていう芸人だと思われ始めたぐらいから、1年も経ってない、半年ぐらいで、『もうヤバイ、やめよう』と思ったんですよ。生意気なんだけど、『トツギーノやってくれますよね』っていうようなところでも、違うネタをやるようにしたんです。トツギーノをやるんだったら、もう『ちょっとすいません、今やめてるんです』って言って」*5

 

 『R-1ぐらんぷり』で「トツギーノ」のネタを披露して注目を集めたバカリズムは、

 そのネタに注目が集まりすぎていることを「ヤバイ」と思い、意識的にやらなくなった。

 このような戦略的なバカリズムの回避もやはり、

 自身が「みんな」に消費されてしまうことの回避だったのだろう。

 バカリズムは早々に、その「嗅覚」で『R-1』自体に出なくなる*6

 

 小沢の活動は「みんな」と距離をおいた中断を挟んでいる。

 けれど、最近になってまたCMとかでかつての曲がカバーされたりもしていて、

 結局のところ小沢健二の曲は、長く「みんな」のもとに届いている。

 バカリズムもまた、「みんな」と距離を保って「トツギーノ」を封じた。

 けれど、別のネタでもずっとウケてきたし、いまでは脚本家としての活動も活発だ。

 

 ある時点で「みんな」と距離をおいた小沢健二バカリズム

 けれどそのことで逆に、食いつくされることなく、

 「みんな」に長く届く言葉をもったと言えるのではないか。

 それは自分の「間」をうまくみつけたということでもあるのかもしれない。

 

『徳井と後藤と麗しのSHELLYと芳しの指原が今夜くらべてみました』 (3月15日)

 

 そして、時代を彩るアイドルは、その時代の「みんな」と共鳴する存在だ。

 

 以前、松本人志指原莉乃について、

 「田舎のおじいちゃん・おばあちゃんでAKBあんま知らん人でも指原は知ってると思う」

 というふうに言っていた*7

 「田舎のおじいちゃんおばあちゃんにも知られている」という表現は、

 「世間」に幅広く認知されている、ということの言い換えでもあるのだろう。

 

 では、指原はどのようにして「世間」=「みんな」にたどり着いたのか。

 

指原「いまはもうないんですけど、最近まで、何をしたらちょうどいい存在になれるのかっていうのを、ずっと書き留めてて」

フット・後藤「誰にとって? 世間にとって?」

指原「世間にとって。ファンをつける方法とかを考えてて、メモにああするとかこうするとか書いて、最終的に『人のインスタの悪口を言う』ってなって、そこで安定してメモが終わったんですよ。世間といま合ってるんだって思って」*8 

 

 世間にとって「ちょうどいい存在」になるにはどうしたらいいか。

 指原にとって最終的な答えは「人のインスタの悪口を言う」ことだった。

 その答えにたどり着いたことで「世間と(自分が)いま合ってる」ことに気づき、

 いろいろ模索して書き留めていたメモは、

 世間と自分の「安定」、「ちょうどいい存在」への着地をもって終わった。

 

 もう少し敷衍しよう。

 

 先週みたテレビのなかで伊集院光は、

 宮沢賢治の詩集『春と修羅』の「序」の一節、

 「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに

 みんなのおのおののなかのすべてですから」を受けて、次のように語った。

 

伊集院「ボク主戦場がラジオの生放送なんですね。ラジオの生放送ってね、絶対ボクは聞いてる人の姿をみることができないんです。だからボクが、いま笑っているだろうって想像するのは、ボクのなかのみんななんですよ、聞いてる方なんですよ、あくまで。ボクが日頃のいろんなもらってるお便りや、まちで会った人にこないだ聞いたよって言われたことから推測する、ボクのなかのみんなです。リスナーです」*9

 

 伊集院光の「主戦場」であるところのラジオの生放送では、

 それを聞く人の姿を伊集院が直接目にすることはない。

 声をダイレクトに聞くこともない。

 けれど、自分の中を掘ることで、

 伊集院はその見えない・聞こえない「みんな」に着地する。

 

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 もちろん、

 田舎のおじいちゃん・おばあちゃんにまで届く、ということと、

 ラジオのリスナーに届く、ということとでは、

 そこでいう「みんな」の規模や内容が大きくちがう。

 片や光のあたる大人数のアイドルグループの中心に立つ人であり、

 片や光のあたらない深夜ラジオをピンで続けてきた人というちがいもある*10

 けれど、自分にとって届けたい「みんな」に届く言葉を探す、ということで言えば、

 指原と伊集院がたどったプロセスはとてもよく似ている。

 

 「みんな」に届く何かを、自分の内部を彫り続けることで見つける。

 小沢健二の楽曲やバカリズムのネタも、そのようにして生まれたのかもしれない。

 けれどもときにその関係は反転し、外部にある「みんな」は捕食者となるのだろう。

 そして着こなせないダッフルコートを着るのだろう。

 

 ときに自分のなかの「みんな」に帰着しつつ、

 ときに自分のそとの「みんな」から距離をとりつつ、

 テレビの向こう側からは着こなされたそれぞれの言葉が届いている。

 

先週みたテレビと『カルテット』(3月6日~12日)

『カルテット』(3月7日)

 

 ドラマ『カルテット』が放送される前、

 事前番組とか番宣とかで、

 「このドラマはラブサスペンスです」

 というような説明がされていた*1

 でも、先週で第8話の放送を終えたこのドラマは、

 さて、どのようなジャンルのドラマなのか、ぼくにはちょっとよくわからない。

 

 たしかにサスペンスのようであり、恋愛もののようである。

 でも、コメディでもあり、社会派でもある。

 日常系でもあり、青春群像でもあり、家族ものでもある。

 演技派のドラマでもあり、アイドルのドラマでもあり、ノーパンポルノでもある。

 張り巡らされた周到な伏線と印象的なセリフ、

 誰もが知るものだったり知る人ぞ知るものだったりする固有名詞、

 画面と音声の隅々に用意されている無意味なようで有意味な情報、

 そして松たか子をはじめとした俳優たちの言葉を介さない表情、

 そういうものでパッチワークされているようにみえるこのドラマは、

 縫い合わされたその全体の名前は何なのだと言われても、藪の中。

 

 松たか子演じる巻真紀あらため早乙女真紀は、

 本当はちがう名前の女、正体のよくわからない女であった。

 『カルテット』というドラマもまた、その正体がよくわからない。

 

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 あるいは、第1話の序盤、タイトルが出る前だったと思うけれど、

 カルテットドーナツホールの4人が最初に音を合わせるときに、

 次のような会話があった。

 

世吹すずめ「はぁ…みぞみぞしてきた」

家森諭高「みぞみぞって?」

世吹「みぞみぞすることですよ」

 

 多様な物理的な反応と化学的な反応の集合であるところの、

 この私の体のなかに生じたある感覚、既存の言葉ではうまく表現できない感覚に、

 「みぞみぞする」という名前を付すとする。

 定期的にあらわれるその感覚を、私はとてもよくわかっているとする。

 けれどその感覚について他者に説明しようとすると、

 「みぞみぞする」という言葉を使うほかない。

 もちろん伝わらない。

 けれど、感覚を共有できないものについては、

 伝わろうと伝わらまいと、最後には、あるいは最初から、同語反復になるしかない。

 

 「みぞみぞする」とは「みぞみぞする」ということ。

 

 同様に、『カルテット』のジャンルに名前を付したとしても、

 最終的には『カルテット』は『カルテット』である、

 と反復するしかないのかもしれない。

 

 けれど、皮膚の内側に閉じ込められた感覚とはちがって、

 幸いなことにぼくたちはその作品を共有することができる。

 もちろんそのうえで、個々の皮膚の内側に生じるものは異なるとしても。

 

『カルテット』(3月7日)

 

 そんなふうに『カルテット』はジャンル不定なドラマなので、

 毎回要約が難しいなと思うのだけれど、先週の第8話は、

 松たか子演じる巻真紀が離婚して早乙女真紀になり、

 それを機に同居生活をしていた4人の関係もまた再編されはじめて…、

 というような話だった。

 

 で、上に引用したのは、松田龍平演じる別府司のもとに弟の圭がやってきたとき、

 その優秀な弟がカルテットドーナツホールのメンバーについて、

 「ちょっとわかんないんだけど」と前置きしながら、

 「その人たち、ダメな人って言われるところあると思うんだよね」

 「いろいろ言われるでしょ。そういうクズとかダメ人間って言われる人たちって」

 「そういうふうに言う人いるじゃない?」

 と、これは自分の意見ではなくて世間一般の意見ですよ、

 という感じで評したことに対し、

 別府が「いまオレに(それを)言ってるのは圭だけど」と静かに詰めつつ、

 でもなおも「ダメ人間じゃん」と反復する弟に対して、

 言った言葉でした。

 

 「人を査定しに来たの? どういう資格で?」

 

 人が人を査定すること、評価することは避けられないかもしれない。

 でも、誰がどういう資格で評価しているのか、ということについては、

 なるほど確かに問われることもあるのだと思う。 

 

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 で、先週土曜日の『さんまのお笑い向上委員会』。

 最初のころの同番組は、

 展開のスピードの速さに理解が追いつかないことがあったのだけれど、

 最近はなんだかキレイに整序されている感じがして、

 ホリケンの出番も減っているような気がして、

 それは番組自体が「向上」した結果なのかどうなのか、とか、

 いろいろ思うこともあったのだけれど、

 先週はホリケンとかくーちゃんとかが場をワチャワチャにする展開があった。

 で、それを受けて今田耕司が、次のように言っていた。

 

今田「また茂木先生にディスられるやん日本の芸人!」*2

 

 先週は、茂木健一郎ツイッターで、

 日本のお笑い芸人は世界水準に至らずに「終わっている」とか、

 日本のお笑いは空気を読んだ笑いに終始していて、権力への批判がなく、

 そういう笑いが支配する地上波のテレビは「オワコン」であるとか、

 そういうことを言ったということで、

 ネットニュースとかでちょっと話題になっていて、

 それを受けて、ということだったのだと思う。

 

 で、茂木の発言に対しては、

 まずは何より「人を査定しに来たの? どういう資格で?」という感じがする。

 いや、人の自由や権利を毀損する目的とか効果とかがないんだったら、

 誰だってどんなジャンルにだって好きに発言したらいいと思うけど、

 でも、それでも、「それをいうあなたは誰なのか」ということは、

 聞き返されて仕方がないところではあるのだろうとも思う。

 

 そして、もう少し言葉を足すとすれば、

 個人的には、茂木のツイートの内容については、

 そういうことはあるかもしれない、とも思う。

 空気を読んだ笑いが多い、というのはそういう感じはするし、

 権力への批判を含んだ笑いが少ない、というのもそういう感じはする。

 けれど、それが言挙げされて否定されるべきことかどうかはまた別だし、

 世界水準とされているそれは本当に基準たりえるのかというのもあるし、

 その話はたぶん「お笑い」の話というよりもう少し大きい話だろうし、

 にもかかわらずもしも話を「お笑い」に限定するのであれば、

 やっぱり「人を査定しに来たの? どういう資格で?」という感じがする。

 

 いや、別府の弟のように具体的な人を査定・評価しているわけではなくて、

 茂木はジャンルを査定・評価しているわけで、話は別物ではあるのだけれど。

 

 だけど、こういういわゆる「炎上」案件にこうやって反応すると、

 しばしば次のような応答が待っている。

 お笑い批判のツイートに芸人が否定的・肯定的に反応したり、

 ネットニュースになったりしたことを受けて茂木は、

 「対話が成立すること自体、価値があると思います」

 というようなことをツイートしていた。

 

 対話を成立させること、議論を喚起すること、人と人をつなげること。

 「炎上」の恒例人物はときに自身の言動の価値を、

 そのあたりに置くことがあるような気がする。

 いや、対話の価値も議論の価値も人と人のつながりの価値も、

 それはとても大切なものだなぁ、とは思う。

 思うのだけれど、でも、そもそも話を始めた人自身が、

 そういうところに自分の言動の意義を寄せていくのは、

 査定したり評価したりする立場から一歩身を引いて、

 その言動がどういう資格というか立場からなされたものだったのかを、

 脇にそらす定型的な技術のように思えて、

 オールマイティなジョーカーを切るみたいな態度のように思えて。

 そこはさぁ、と思う。

 

 それは、別府の弟が、

 「そういうふうに言う人いるじゃない?」

 と自分の意見を世間の言葉のなかに紛れ込ませていたことに似ていて、

 世間と言っても言論空間と言っても、

 それこそ空気と言ってもなんでもいいけれど、

 そういうところに、

 「それを言うあなたは誰なのか?」という問い返しを、

 雲散霧消させてしまうことなのではないかという気もする。

 

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『カルテット』(3月7日)

 

 以前に何かの文章で「家族」について、

  「下着を同じ洗濯機で洗う間柄」

 みたいに定義してあるのを読んだ記憶がある。

 

 『カルテット』の4人が同じ洗濯機で下着を洗っているかはわからない。

 そもそもノーパンな人もいることだし。

 けれど、同じシャンプーを使う間柄は、法的には家族ではなくとも、

 家族と等価な居場所としての役割をもった間柄であるとは言えるのかもしれない。

 

巻真紀「わたしたち同じシャンプーを使ってるじゃないですか。家族じゃないけど、あそこはすずめちゃんの居場所だと思うんです」*3

 

 シャンプーだけではなくて、同じそばつゆで同じそばを食べたりとか、

 同じ暖房便座に座ったりとかもまた、同じような意味でそうなのかもしれない。

 「誰でもない女」が「このままみんなと一緒にいたいんです」と選んだ場所は、

 家族のような居場所だったのかもしれない。

 

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 で、そういったオルタナティブな家族的なもののかたち、ではなくて、

 これまでの家族的なもののかたち、名実ともに家族をつくる、ということで言えば、

 先週日曜の『ボクらの時代』で、結婚して出産した女性芸人3人、

 大島美幸くわばたりえ虻川美穂子が、トークしていた。

 

 3人はそれぞれその配分は異なりつつも、

 芸人としての活動を続けつつ、ママタレとしての活動も展開している。

 もっとも芸人寄りなのは大島だろうか。

 もっともママタレ寄りなのはくわばただろうか。

 今度「ママ」の立場から都知事と東京の未来について考える会に出るらしい。 

 

 役者とか歌手とかとはちがって、

 バラエティを主戦場とする芸能人は、

 結婚し子どもを生むと、ママタレとしての活動を大なり小なり始める。

 前者と後者の間には、

 演技なり歌なり形のある「芸」の提示を軸足に置いている人たちと、

 コミュニケーションなり生き方なり不定形な「芸」の提示に軸足を移した人たちと、

 というちがいがあるのかな、とも思うのだけれど、

 虻川は次のようにも言っていた。

 

虻川「子どもが生まれたら、子どものことが結構頭がいっぱいいっぱいになっちゃって、お笑いとかテレビってすごいもう100%そこに注がないと、おもしろくなんてできるような甘い世界じゃないじゃん。みんながおもしろいこと考えてるときに、こっちは自転車の後ろにはどんなカゴをつけたらいいんだろうとか、そういうことを考えてるわけじゃん」

大島「いままで100でいってましたもんね、お笑い」

虻川「そう、100でいってたから、その手の抜き方とかもうまくできないから、すごい中途半端」*4

 

 他方で、結婚して、出産して、最近またバラエティ番組とかに出ている眞鍋かをりが、

 先週火曜の『ダレトク!?』で、次のようなことを言っていた。

 

高橋真麻「あんまりママタレっぽさを出さないですよね」

眞鍋かをり「ママタレはちょっと無理だと思って。ちょっとキャラじゃないというか。ママタレがよくやるブログとかも、もう全然やってなくて」*5

 

 少し前のブログ記事で、

 芸能人にとって「キャラ」 は成長させるものではなくて、乗り換えるもので、

 成長のようなものの提示があるとすれば、

 それは「キャラ」の乗り換えの果ての「人間」の成長としてなされるのでは、

 みたいなことを書いた*6

 

 女性芸人の多くは子どもを生むと、

 「ママタレ」という「キャラ」を新たに着ながら、

 「人間」としての成長を提示し始める。

 そしてそれは、男性芸人の多くが「パパタレ」にならずに、

 父としての成長を語らないというような、非対称性を伴ってもいる。

 いや、「よしもとパパ芸人」みたいな取り組みもあるみたいだし(パパパーク!*7

 「パパタレ」な男性芸人もいるけれど、

 でも、引退を選択しなかった女性芸人がほぼ「ママタレ」になるのに比べると、

 ということだ。

 

 だけど同じくバラエティ番組を主戦場としてきた眞鍋は、

 ちょっと自分は「ママタレ」の「キャラ」じゃない、と言って、

 先週木曜の『アメトーーク!』では、

 子育てでも夫婦生活でもなく、仕事と家庭の両立でもなく、

 ひとり旅を語っていた。家族をもった後に、ひとりでの旅を語っていた。

 

 人生の移行と「キャラ」の移行を対応させない、

 そんな眞鍋が歩いている旅路は、

 バラエティ番組を主戦場とする女性芸能人の、

 オルタナティブなキャリアなのか、どうか。

 

 『カルテット』(3月7日)

  

 再々々度、先週の『カルテット』。

 巻真紀あらため早乙女真紀の元・義母、もたいまさこ演じる巻鏡子が、

 ドーナツホールの4人に食事を出しながら、

 パッチワークの先生から聞いた言葉として、上のように言っていた。

 あるいは、次のようにも言っていた。

 

巻鏡子「私の尊敬するパッチワークの先生はおっしゃいました。努力でもない、信念でもない、人の心というのは、習慣によってつくられる。どういうことかというと、心というのはとても弱いものです。だけど1度身についた習慣であれば、そう簡単には乱れません」*8

 

 人の心は努力でも信念でもなく、習慣がつくる。

 もたい、もとい、鏡子はそう言う。

 

 そしてまた、先述のように、

 洗濯機だったり、シャンプーだったり、そばつゆだったり、便座だったり、

 互いの皮膚の間接的な接触を伴うような、

 そういう習慣を他者とともに共有することは、

 それがペットボトル1本分の距離を置いた接触であるとしても、

 家族のような居場所をつくる。

 

 皮膚の内側にあるものは共有できない。

 けれど、皮膚と皮膚の距離を置きつつもなされるその接触は、

 繰り返しのなかで立ちあがる習慣は、

 共有できる居場所をつくる。

 

 習慣によってつくられた心は、

 断片的な布を隙間なく縫い合わせるパッチワークのように、

 日常のあれこれに簡単に乱されることはない。

 そして、反復する習慣によってつくられた関係は、

 穴のあいたドーナツのように互いをつなぎ、

 日常のあれこれに簡単に乱されつつ、それでも続く。

 

 こういうドラマのことを何と呼べばよいのか、ぼくは改めて、よくわからない。

 

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 以上、『カルテット』で縫い合わせた先週みたテレビのパッチワーク。