江原と細木のその後を占う

江原啓之が関わった番組(フジ『27時間テレビ』)に対して、
放送倫理・番組向上機構BPO)の放送倫理検証委員会が放送倫理違反を指摘。
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これを契機に、
おそらく「スピリチュアルブーム」は沈静化していくことになるのだろう。
先日の『そこまで言って委員会』でも「スピリチュアルブーム」が議題に上がり、批判されていた。
少しずつ表に出てくる細木・江原バッシング。
このブームの沈静化が「良い」か「悪い」かと問われれば答えは迷わず「良い」わけだから、
とにもかくにも事態の好転と言うべきなのかもしれない。


でも、
細木数子が撤退を表明したとたんにマスコミがこぞって問題を指摘し始める、という符合に、
何だか釈然としないものは残る。
これまで各局こぞって細木のもつ視聴率動員力をさんざん利用し、
気持ち悪いものをより気持ち悪く加工した上で垂れ流していながら、
細木が「休業」を宣言するや否や、
「ほんとはああいうの、問題があると思ってたんですよ」という姿勢の表明。
バッシングを始める側は「正義の味方」を演出したいかもしれないけれども、
それは、「正義の味方ヅラ」ってやつだ。


間違ってもこれを、「テレビの自浄作用」なんていう風に捉えることはできない。
テレビからはそういう「自浄作用」イメージが、
細木や江原に関する出来事の黙殺というかたちでしっかりと伝達されてくるだろうけど*1


ただ単に、
単品としての力が巨大だった細木が出なくなる分、
「小物」がまたぞろ出てくる、というだけの話だ。
細木数子は画面からいなくなるが、
「細木的なもの」は画面からなくならない。
飯島愛がいなくなったとたん、
IKKOが女子高生の愛の伝道師役に落ち着きつつあるように。


細木の登場以来「ご意見番」としての役目を追われていたデヴィ夫人は、
確実にその役割を取り戻し始めるだろう。
野村沙知代のカムバックもありうるかもしれない。
いずれにせよ、デヴィや野村のような骨董品の再利用だけではなく、
「細木的なもの」を宿す新しい器が、
誰もが忘れていたところからぞくぞくと掘り起こされるはずだ。
いや確かに、その新しそうに見える器もほんとは大昔の品なのだけれど、
「細木的なもの」の肝は、器の古さを「古さゆえの価値」に変換しするところにある。
しかも、「良いもの」に価値があるのではなく、「古いもの」に価値があるという具合に。
テレ東『なんでも鑑定団』の地方鑑定大会に出てくる、
明治期に大量生産された古い絵皿を室町時代の名工の作として今の今まで疑わず大切にしていた人のように*2
しかし、それは錯誤だ。
その皿の「汚れ」は「味」ではない。ただの「汚れ」だ。


そもそも、
TBS『ズバリ言うわよ!』は、
同局の『快傑熟女!心配ご無用』や『マダムんむん』の延長線上にあったのだ。
ひな壇にぞろぞろ並んでいた面々が一極に形象化したのが細木数子という人物であったことを思い返そう。
そうすれば、わかるはずだ。
細木数子の退場を期に、「細木的なもの」は小さな細木たちに再び分割される。


ただ、それだけのことだ。


そしてまた、皆々が忘れ去ったころに「細木的なもの」は再集結し、
第2の細木を呼び出すだろう。


これは予言や占いのたぐいではない。必然である。

*1:あたかも自分が催眠商法に引っかかった被害者であったかのように。「やっと目が覚めました」という具合に開き直って。「被害者なんだからこれ以上語らせないで。2次トラウマよ」という具合に防御線を張って。「もうすんだことだからいいじゃないか」という親戚のおじさんの声がどこかから聞こえてくる。しかし、テレビ局の側にとってみれば、その催眠商法に引っかかったのはテレビの側ではなく、視聴者の側なのだ。粗悪品を買った責任は視聴者にある。「視聴者が求めるものを放送しただけです」。見誤ることはできない。そこでは、視聴者の側がテレビ局に催眠を仕掛けられている。

*2:親戚が集まる盆正月にごそごそと押入れの奥から取り出してみんなにそれを自慢することが彼の喜びだ。「これは室町時代の藤原なんとかっちゅー偉い人が作った皿なんじゃぞ」。孫、うんざり。孫の学校の先生が家庭訪問に来るときには、その皿を目に付きやすいところにわざわざ飾ったりする。このあたりの、「みんな見向きもせんが、見る人が見ればわかるはずじゃ」という老人的(老人の、ではない)ルサンチマンの具現化が「細木数子」というテレビタレントだったと考えれば、がってん。「ほれみたことか」という解放のポリティクス。1枚500円の皿はこうして神棚に祀られた。