猫ひろしは好き

ぼくはネコが嫌いなのだけれども、
なんで嫌いかって考えると、
たぶん、ネコそのものが嫌いっていうよりも、
ネコが好きな人になりたくないからネコが嫌い、っていうことなんだと思う。


人が何かを嫌いになるときは、他者を自分の中に組み入れるのを拒否するときだ、と。


キングコング西野でも笑い飯でも小林麻耶でも細木数子でもタモリでも筑紫哲也でも松本人志でも何でもいいのだけれども、
テレビの被写体をめぐって「好き」「嫌い」が云々されるときもたぶん、そういうことなんじゃないかと思う。
だとしたらそれはもう、共約不可能な価値の対立だ。
少なくとも「好き」「嫌い」を云々している間は。


ぼくはネコが嫌いだけど、ネコがかわいいとは思ってる。
でも、ネコをかわいいと思うこととネコが好きなこととは、関連しているだろうけれど直接にはつながらない話だ。
ネコが好きな人をどう評価するか、っていう項がそこには介在しているから。
つまり、「ネコへの欲望」は「ネコへの欲望への欲望」を前提としている。
で、ネコが嫌いなぼくは「ネコへの欲望への反-欲望」を抱いている。
だから、ぼくはネコが嫌い。


キングコング西野が嫌い、と標榜する人の場合も、
キンコン西野への欲望への反-欲望」をそこでは宣言しているのだ。
だとしたらそれはもう、
仮にその人がキングコング西野で笑ったことがあるとしても、
その「笑い」をキンコン西野が好きな人との間で共有することはできない。
だってその人は、
キンコン西野で笑う自分自身、つまりキンコン西野が好きな人になる可能性を宿した自分を拒否したいわけであって、
コミュニケーションを通してキンコン西野が好きな人を拒否したいわけではないのだから。


とかなんとか、
今日の『いいとも増刊号』でラッパーに扮したキンコン西野のおもしろさを観て、そんなことを思った。
ぼくはそのうちキンコン西野が好きになる。