『純と愛』の話

最後の最後まで「起転起転」の展開だった『純と愛』が終わった。
やっと終わった,と思う一方で,いいドラマだった,とも思う。
つまり,もう二度と見返したくない名ドラマだった,と思う。



自分の思い出のなかの「魔法の国」づくりに猛進する主人公と,
そんな主人公を非難しながらも都合よく依存する家族や同僚たち。
こちらが全く共感できない動機で登場人物が行動し始めるかと思うと,
心当たりがありすぎて目をふさぎたくなる剥き出しの悪意がぶつけ合われたりもする。
しんどい展開の末にようやく獲得されたものは速攻で失われてしまい,
定石どおりのカタルシスはことごとくキャンセルされる。
キャッチーな名言が頻繁に出てくるわけでもなく,
張り巡らされた伏線の見事な回収みたいなのもない。


こういう話を朝ドラとして週に6日,15分ずつ半年間見続けるのは,
なんというか,あまり心地良い経験ではなかった。
なので,やっと終わったという気持ちが一方である。
べつに誰に視聴を強いられたわけでもないけど。



けれど他方で,誠実なドラマだったとも思う。
生きていれば理不尽な「不幸」は何度でもやってくるし,
やってきた「不幸」は努力すれば必ず乗り越えられるってもんじゃない。
「不幸」をチャラにしてくれる「救済」が突然訪れたりもしない。
純と愛』は,現実のそういう身も蓋もなさを強調した上で,
現実と真正面から向き合おうとしたフィクションだったと思う。
いつもは現実のホテル従業員の写真が紹介されるエンディングのコーナーで,
最終回はジュークボックスの横にひとり立つ「社長 待田純」の写真が掲載されたことは,
そういう物語の終着地点として象徴的だった。
自分の思い描くドラマチックな筋書き通りに物語が進むことを期待して救われようとする視聴者を,
現実のドラマが非道にも終始裏切り続けたことは,
現実とフィクションが交錯する展開でなんだかおもしろかった。


そして,理不尽で必ずしも救われない世界でも生きていくことを「決めた」主人公の成長は,
ありうる「希望」の提示だったと思う。
多くのものを失った上で到達したその境地は,
簡単に「希望」と言えるものではないのだけれど。
ジュークボックスの横に立つのが純ひとりだったことは,
これからも理不尽な「不幸」が反復することを示唆しているようにも思えるし。
いずれにせよ,「救済」の訪れない現実を最後まで繰り返し描き続けた点で,
そして,それでもありうる「希望」のかたちを模索した点で,
純と愛』は誠実な物語だったと思う。



でも,その愚直な誠実さは,やっぱりつらい。きつい。
朝ドラじゃなかったら,ぼくはおそらく『純と愛』を見続けなかった気がする。
だって,これから先のことはわからないけれど,
放送が終わった直後の今,
また最初からDVDとかで見る気があるかって言ったら,無いもの。


だから,理不尽にも一方的に届けられないと受け取れないものもあるよね,と。
見たいものが見たいわ,で押し通すといろいろ見落とすこともあるよね,と。


もう二度と見返したくないと思わせる形式でないと描けないものを,『純と愛』は描いた。
そのことをぼくはまずもって粛々と受け止める。
そう決めました。