タモリを待ちながら

 

 『いいとも!』の終了がタモリの口から発表されたのは去年の10月22日、いつも通り終わるかにみえた生放送のエンディングだった。そして、ラストデイが近づくにつれ注目を集めていった話題のひとつは、「最終回の最後、タモリは何をいうのか?」だった。この「最後の言葉」問題、たとえば千原ジュニアがタモリに直接たずねたりしている。けれど、たずねられたタモリは、何より「最後の言葉」問題を図らずも意識してしまう自分、「なんかいいこと狙いそう」な自分に対するきまりの悪さを吐露して、それ以上この問題に関わることを避けた。

 そして迎えたラストデイ。結局、『いいとも!』最後の日は昼も夜も、タモリは最後に「また明日もみてくれるかな」と、客席とテレビのこちら側に呼びかけた。いつもの言葉を、いつもより少し照れた笑いを多めに含ませ、居心地が悪そうに繰り返したのだった。

 

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 最後まで同じ行動を繰り返したタモリ。そんなタモリの姿はなんだか、周囲から与えられた役割を最後までこなした人のようにもみえる。土日以外は毎日同じ場所に通うタモリは、しばしばサラリーマンに例えられてきた。当の本人が『いいとも!』での32年をサラリーマンに重ねたこともある。サラリーマンとしてのタモリは、最後まで「自分に与えられた役割」を反復した。そういう風にもみえる。

 そして、タモリを「役割」から理解するそのような見立てに従えば、タモリの最後の言葉をめぐって問われるべきは、次のようなことになるだろう。

 「タモリは一体何をしたのか?」

 タモリが最後に言った「また明日もみてくれるかな」とはどういう意味なのか。その言葉でタモリはテレビの向こう側やこちら側に何を伝えようとしたのか。そして、同じ問いかけを32年間続けてきたタモリはテレビにとって、あるいは社会にとって、どういう「役割」を果たしてきたのか。そういう問いに、それなりの答えが与えられればよいだろう。

 しかし、本当にそうか。

 

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 いつ頃からなのかよくわからないけれど、あるときから『いいとも!』は終了が噂されてきた。そしてその噂と共に、タモリに代わる人物、いわゆる「ポスト・タモリ」も探されてきた。特定の人物が浮かんでは消え、「人材難」だと言われたりもしてきた。

 だけどそもそも、「ポスト・タモリ」とは何を意味するのか。テレビのなかでタモリが担ってきた「役割」を継承できる人、ということだろうか。では、タモリが担ってきた「役割」とは何か。料理のレシピと会話術をブログ記事に提供する以上に、どういう「役割」を負ってきたのか。

 「ポスト・タモリ」の探索の背景にはこのように、「タモリは一体何をしたのか?」という問いがある。その問いの答えであるところの「何か」を引き継げる人物に、「ポスト・タモリ」という称号が与えられる。では、それは誰か。

 

 いや、おそらく、問い方が間違っているのだと思う。何より『いいとも!』でのタモリの最後の言葉は、「タモリは一体何をしたのか?」という問いとタモリの行動様式のズレを、改めてあらわにしているのだと思う。

 「タモリは一体何をしたのか?」という問いは、タモリの言動の意味をある特定の「役割」へと還元するものだ。確かに、テレビの画面に写っている多くは、「あなたのできることは何か?」という問いと期待にそれなりの答えを出した人たちだったりする。テレビ画面のうえに「おもしろい」なり「ためになる」なり「感動する」なりを成立させるための、なんらかの「役割」を担える人だったりする。そしてそれは、「あなたは何をするのか?」「あなたは何ができるのか?」という、誰か他の人とも交換可能な役割の次元、「あなたは何?」の問いで人を捉えるという、広く社会的な慣習ととてもよくシンクロしている。

 

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 でも、「また明日もみてくれるかな」といつものセリフを最終回でも繰り返したタモリは、「あなたは何?」という問いに明確な答えを出すことから逃れていった。最後に何か感動的なセリフを言うでも、万人が膝を打つ言葉を言うでもなく、周囲から寄せられる「あなたは何をするのか?」という問いかけから、タモリは照れ笑いを浮かべて居心地が悪そうに離れていったのだ。

 で、あれば、そんなタモリをみた後に、テレビのこちら側に残された問いはひとつだ。

 「タモリとは一体誰か?」

 最後まで同じ言葉を繰り返した、あのサングラスの男は一体誰なのか。高まる周囲の期待から身をよじって逃れ、画面に大写しになって現れたあの照れ笑いの男は誰なのか。「また明日みてくれるかな」という言葉を発した瞬間、またしてもタモリは周囲の期待から自由になった。と同時に、その得体のしれない正体の一端を曝した。このときテレビのこちら側に残されているのは、「あなたは誰?」の次元で彼を問うことだけだ。

 その問いに対する答え、浮かび上がってくるタモリの姿は当然、問いを発する人の立ち位置によってさまざまなものになるだろう。「あなたは何?」とは違って、全体にとっての役割というような一元的な尺度が、「あなたは誰?」という問いにはないのだから。

 

 では、タモリとは一体「誰」なのか? 幸運なことにぼくたちは、この問いについてのひとつのまとまった答えを、すでに書籍のかたちで手にしている。タモリを紐解くことの愉悦と、タモリを書き留めることの刹那のスキマを、ぼくたちはこの本を手すりとしながら進むことができる。とかなんとか言いながら、「タモリとは誰か?」というこの難問の前から、ぼくは身をよじって逃れる。

 

タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?

タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?

 

 

 「あなたは何?」ではなく「あなたは誰?」へ。タモリはどこまでもその問いが投げかけられる場所へ、その問いしか有効ではない場所へと逃れていく。「ポスト・タモリ」という問いの構えの前に、「ポスト・タモリ」は現れない。ぼくたちにできるのは、「あれは誰だ?」という問いを思わず投げかけてしまう瞬間を待ち望みながら、テレビの前で待つことだ。そういう瞬間は、きっと結構な頻度でテレビの中に訪れている。そしてそのときテレビのこちら側は、「あなたは何?」という問いを生きる日常のなかで、自由の一端を垣間見ることができる。

 

 と、そんなことを書いている途中で思い出した。つい最近、このブログに「タモリは4月から何をするのか」という記事をあげたばかりだったことを。むぐぐ。どの口が言う。