先週みたテレビ(11月10日~16日)
『ごきげんよう』(11月10日)
日本エレキテル連合・中野「まさかこういう状況になるって思ってなかったので」 小堺「ある種社会現象ですよ。みんな言ってますから。ダメよダメダメ」 中野「私たちはもうそんなつもりもなく作ったネタなので。まさか子どもが言うなんて思ってもなかったですし」/『ごきげんよう』
— 飲用 (@inyou_te) November 10, 2014
子どもを含む幅広い世代から知られる存在になった日本エレキテル連合。
所属事務所の社長・太田光代が出演した先週の『徹子の部屋』では、
黒柳徹子も「今ね、すんごいアタシ気に入ってるのね、ダメよ~ダメダメ」
と言っていた*1。
少し調べてみると、スギちゃんやキンタロー。の『徹子の部屋』出演記録はないみたいで、
ブレイク中の芸人が同番組に出演するハードルはどうやら高い。
でも、徹子のお気に入りということで、
これから年末にかけてのどこかのタイミングで、
日本エレキテル連合の2人があの格好で『徹子の部屋』に出たりするのかもしれない。
では、『徹子の部屋』の出演にも手がかかっているかもしれない日本エレキテル連合の、
『紅白歌合戦』へのゲスト出演はあったりするのだろうか。
あの格好ではなかったけれど、NHKへの初出演も先週末の『ケータイ大喜利』で果たした*3。
では、おしゃべりワイフシリーズ未亡人朱美ちゃん3号は、『紅白』的にどうなのだろうか。
テレビ的にどうなのか。お昼の番組的にどうなのか。視聴者層的にどうなのか。
そういう「○○的にどうなのか」というハードルを一つひとつクリアすることが、
今年の日本エレキテル連合のブレイクのひとつの推進力だったのだとしたならば、
では、「『紅白』的にどうなのか」という問いにはどのような答えが出るのだろうか。
今年の大晦日の夜8時前ぐらいにお送りされているだろう『紅白』の子どもコーナーに、
着ぐるみと一緒に「ようかい体操」をカクカクと踊る朱美ちゃんはいるのだろうか。
『素敵な選TAXI』第5話(11月11日)
「タイムスリップ感がないのが性能がいい証拠」/『素敵な選TAXI』第5話
— 飲用 (@inyou_te) November 11, 2014
ブレイク芸人といえば、バカリズムが先日の『SWITCHインタビュー 達人達』で話してたけれど*4、
いろいろな番組でトツギーノのネタを求められて半年か1年か経ったころ、
「もうヤバい、やめよう」と思って、トツギーノのオファーを断り始めたのだとか。
そんな選択をしてきた結果なのかどうなのか、
バカリズムは2014年の今も人気芸人として活躍していて、
さらには脚本家としても活動するようになっている。
そんなバカリズムが脚本を書くドラマ『素敵な選TAXI』がおもしろい。
時間の進行に善も悪も正も邪もない。合理も非合理もない。
そのような価値や原理に基礎づけられた因果の連鎖が現在を導いたのではなく、
現在はただ、過去からのひとつの帰結としてある。
また、たしかに自分の過去の選択によって現在は変わってくるけれど、
その選択が実際のところ何を帰結するかは現在になってみないとわからない。
そこに因果の連なりがあるようにみえるのはあくまでも現在の地点からであって、
選択の前に、あるいは時間の流れのただなかで、その因果がみえるわけではない。
因果は、そしてその因果を統御しているかのようにみえる何かしらの価値や原理は、
現在の地点から過去に遡って再構成されたものにすぎない。
だとしたら、いくつもの選択を経た後に生きて笑って迎えることのできたこの現在は、
ひとまず「めでたしめでたし」と受け止める他ない。
と、別にそんな話ではないのだけれど、
とりあえず『素敵な選TAXI』はいつでも「めでたしめでたし」で終わる心地の良いお話。
『ヨルタモリ』(11月16日)
吉原さん「時間っていうのはあるようでないわけじゃない。人を待ってる5分と、ただ酒のんで楽しい5分とじゃ全然ちがう。時計なんつうのは時間じゃねぇからね。あれ一応空間になおしてみんな納得してるだけであって、あれは時間じゃない」/『ヨルタモリ』
— 飲用 (@inyou_te) November 16, 2014
タモリが、というか、吉原さん*5が、というかが、時間について語っていた。
いわく、「時間っていうのは、あってないようなもの」であり*6、
時計も「一応空間になおしてみんな納得してるだけ」であって時間そのものではない*7。
時間の概念をもつのは人間だけかもしれず、
それは人間が「刻々自分を過去のものにしていく」存在だから。
「過去のものにしていくから、時間という概念が生まれてくると思うんだよね」*8。
時間をめぐって展開する「ジャズな人」*9の話はとてもおもしろく、
ずっと聞いていたいくらいだったのだけれど、
この日の『ヨルタモリ』の個人的な山場は、
松たか子が歌っていたりする「ありのままの自分」について、
「自分って常に変化してるわけでしょ?」
「その変化も自分でわかんないわけでしょ?」
「『ありのままの自分』なんつうのは1秒もねぇわけよ」
と批判を展開した吉原さん*10に対して、
「(あの歌は)1秒の、一瞬のよぎったことを歌ってる何分間だと思う」
そもそも冒頭の時間についての話も、
その切り返しから吉原さんというかタモリというかに火がついて展開されたもの。
吉原さんいわく、「歌うっつうのは、語りの延長線上にあるもん」*12。
「ジャズな人」と「ジャズな人」のセッションから生み出される会話は、
「アントニオ・カズヨシ・ジョピン」の歌うボサノヴァと同様に、
やはりいつまでも聞いていたい、語られた歌なのでした。
『ナカイの窓』(11月12日)
黒沢「私がやらせていただいてる歌ネタというのは、自分が何を歌うのかはわからないんです」 中居「ってことはどういう風に動くかもわからないの?」 黒沢「わからないんです。人の髪の毛をつかんでしまったりとか」 河本「イタコなの?」/『ナカイの窓』11/12
— 飲用 (@inyou_te) 2014, 11月 13
語るように歌うと言えば、先週の『ナカイの窓』は歌ネタ芸人が集合して、
どぶろっくとかAMEMIYAとか馬と魚とかが、
あれこれ歌ったり、語ったりしていた。
ではそこに、語られたような歌はあっただろうか。
あるいは、歌われたような語りはあっただろうか。
いや、目を留めるべきはそこではないだろう。
「語るように歌う」以前に、
語りであるとも歌であるとも言いがたい「何か」を、
あたかも「イタコ」のように画面に刻む彼女を前にしては。
歌とは何か。語りとは何か。
アントニオ・カズヨシ・ジョピンと千手観音かずこは、
私たちにそのような問いを残して画面から去っていく。
その問いの答えを私は見つけることができないだろう。
だがしかし、彼や彼女が過去となった次の瞬間を笑って迎えることができたなら、
それはやはり「めでたしめでたし」と受け止める他ない。