先週みたテレビ(1月12日~18日)
『バイキング』(1月15日)
鈴木奈々「そのスタイルの作り方ってどうしてるんですか?」 真木よう子「何にもしてなくって…遺伝なんです」/『バイキング』1/15
— 飲用 (@inyou_te) 2015, 1月 15
先週15日の『バイキング』に真木よう子がゲスト出演。
同日に始まる新ドラマ『問題のあるレストラン』のPRを兼ねて。
有働由美子アナウンサーに「色っぽくなるため」の秘訣を聞かれて、
簡潔に「ない」と答えていたことがある*1。
そして今回、鈴木奈々に「スタイルのつくり方」を聞かれて、
やはり簡潔に「遺伝」と回答していた。
で、「遺伝」という話題を受けて話を進めると、
ある人の性格や能力を決めているのは遺伝か環境か、みたいな議論がときどきある。
そのあたり、素人のぼくにはもちろん正確なところはわからないのだけれど、
ものの本によると結局のところ、
遺伝だけでも決まらないし環境だけでも決まらない、
遺伝と環境の相互作用による、みたいな感じっぽい。
確かに、容姿などについて聞かれたときの回答の簡潔さは、
育った環境の影響が多分にあったりするのかもしれない。
でも、だからといって、鈴木奈々と真木よう子のスタイルのちがいについて、
イス生活だったか畳生活だったかとかで説明するのはおそらくちょっと無理がある。
『ナカイの窓』(1月14日)
台本に脱線トークを事前に書き込んで準備している中居。淳「『ナカイの窓SP』にこないだ出してもらったときに、脱線多いのね。だけど、用意してる脱線があるから本当の脱線ができんのよ。余裕なのよ気持ちが。準備が半端ないからどんなことでも回せんの」/『ナカイの窓』1/14
— 飲用 (@inyou_te) 2015, 1月 16
で、ものの本には、
遺伝子型と表現型という言葉が出てきたりして、
ある生物の遺伝子の情報がどのようになっているか(遺伝子型)と、
その生物がどんな形をしてたりどんな行動をするか(表現型)は別です、
表現型は遺伝子型をそのまま反映するわけではなく環境によっても変化します、
みたいなことが説明されるのだけれど、
それはたとえばテレビで言えば、
台本と番組の関係に見立てることができるかもしれない。
遺伝子型であるところの台本が番組の大まかな方向づけをしていたりするけれど、
表現型であるところの番組は台本にないさまざまな脱線を含みながら出来上がる。
そんな風に言うことができるかもしれない。
ただ、先週14日の『ナカイの窓』によると、
中居正広は事前に台本に脱線トークの書き込みをして準備をしているらしい。
もちろんその想定通りにトークが進むわけではないのだろうけれど、
田村淳の言葉を借りれば、「用意してる脱線があるから本当の脱線ができる」。
なるほど、すでに人類は遺伝子組み換えという手段をとることもできる。
あるいは体については表現型に直接メスを入れるという手段もある。
『SWITCHインタビュー 達人達』(1月17日)
淳「台本があることがいいか悪いかは置いといても、あまりにも台本がある世界に居すぎたんで。オレは極力台本なんて読まないし、読まない方がテレビ番組っていう作品にはいいことが多いと思ってる」「何にもない所から生まれてる会話の方が放送する意味あいが高いと思うんですよ」/『達人達』1/17
— 飲用 (@inyou_te) 2015, 1月 17
ただ、もうちょっと台本の話を続けるならば、
「用意してる脱線があるから本当の脱線ができんのよ」と言っていた淳は、
先週17日の『SWITCHインタビュー』では、
台本を「読まない方がテレビ番組っていう作品にはいいことが多い」と言っていた。
なぜなら、「何もないところから生まれてる会話の方が放送する意味合いが高いと思う」から。
台本はない方がいい。同じようなことは、萩本欽一がよく言っていたりする。
たとえば、萩本が自身で座長を務めていた舞台の台本は、最後まで手を入れるという。
というのも、出演者が台本に慣れると、開演1か月前には舞台ができあがってしまうから。
「1か月前にできちゃってるんじゃ、テレビでいいわけね」*3。
テレビと舞台で2人の話のフィールドは異なっている。
けれど、「事前に準備されたもの」よりも「その場で生まれるもの」を優先する感覚は、
2人に共有されていると言えるかもしれない。
他方で、台本に関して、かつて片桐はいりはこんなことを言っていた。
自分が「変な人」と思われるとしたら、それは見た目だけではなくて、
「台本の読み方がたぶん人とちがう」から。
台本のなかに「どっか笑えるとこないかな、ってやっぱり絶対探す」から。
そこで言う「笑える」は「ウケる」ということとは、ちょっとちがう。
台本のなかに探すのは、「自分の鼻の奥で『フッ』って笑える」ところ。
なぜなら自分は、「役に対して『フッ』って思っていたいんですよ」*4。
台本にある役に対して常に「フッ」と笑うポジションに立つ。
つまり、台本の存在を前提に、そこから距離をとる。
その距離のとりかたに、周囲からは「変な人」と評価される自分の個性が表現される。
ロンブー・淳や萩本は、台本から自由になることを求めていた。
それに対して、片桐はいりの台本との付き合い方は、
台本への自由と呼べるかもしれない。
脱線トークを事前に書き加えたりする中居の台本との付き合い方も、
あるいはそのように呼べるのかもしれない。
台本からの自由と、台本への自由。
芸人と役者、テレビと舞台というようなちがいはちょっとここでは無視することにして、
方向性はちがうけど、どちらにしてもそこには確かに自由を求める振る舞いがある。
ただし、鳥居みゆきが以前話していたエピソードにこういうのがある。
「私だってさ、台本とかによくさ、『鳥居(自由)』とかばっか書かれてるわけ」
「なのにホントに自由にしたらさ、すごい怒られたりする。不自由」*5
さてこの場合、
台本から極力離れることが自由なのか。
台本に向き合っていくことが自由なのか。
どうにも自由は難しい。