『ファミリーヒストリー』(1月26日)
大竹「これだけ力強い血がつながってるんだったら、もっと強くなれるような」 今田「まだですか?」/『ファミリーヒストリー』1/26
— 飲用 (@inyou_te) 2017年1月30日
ある芸能人の家族の歴史を、
公共放送の資力に裏打ちされた圧倒的な取材力でもって丹念に調べ、
ほんの45分とか1時間とかいった時間で惜しげもなくお送りする、
そんなNHK『ファミリーヒストリー』の先週の放送に、大竹しのぶが出ていた。
大竹は、自身の家族の歴史を振り返ったVTRをすべて観終えて、次のように言った。
大竹「信念とか、立ち向かう勇気とか、闘う力とか、そして愛とか。やっぱり…このお家に生まれて良かったって、とっても思いますね」*1
具体的な内容は省略するけれど*2、
番組で描かれていた祖母・八重や祖父・一水、父・文雄や母・江すてる、
そのほか有名無名な人たちが織りなす信念、勇気、闘い、愛の家系図、
それはなんだか現在の大竹の姿に重なるようだった。
具体的には、去年の『紅白』での「愛の賛歌」を歌う大竹に重なるようだった。
当時のTwitterのタイムラインに、
「バットマンのジョーカー」という文字列がいくつも並んだことを、
重ねて思い出したりもした。
去年の放送で『ファミリーヒストリー』が明らかにしたところによれば、
狩野英孝の実家の神社は明治時代に村の中の三角関係を理由に放火されてたらしい*3。
残された文書と生きられた証言の積み重ねで構成される物語は、
「野生の勘」では到達できない事実の厚みでもって、
その人の「いま」を「かつて」のルーツに結びつける。
そして、大竹自身が語っていたように、
「始点」となるルーツと結びつけられた現在の自分は、ときに「もっと強くなれる」。
『さんまのお笑い向上委員会』(1月28日)
くっきー「オチに向かってしゃべってくのハズないですか? オモロイここのために一生懸命だんずってしゃべんの、恥ずかしないですか、なんか」/『向上委員会』1/28
— 飲用 (@inyou_te) 2017年1月29日
千原ジュニアを前にくーちゃんは言う。
「オチに向かってしゃべってくのハズないですか?」
明確なオチに向かわないのであれば恥ずかしくないという。
くーちゃんが番組恒例の”閉店ガラガラ”でみせていた、
頭に花、白縁の小さいサングラス、「毎度おさわがせします」のTシャツで、
内股・小股でセット奥から出てきて「お花摘みに来たの…」と言い、
お花がないと聞くと「じゃあ帰るね…」と言ってセット奥に帰る、という、
ネタというかパフォーマンスというか出し物というか毎度お騒がせというか。
みていた今田が「こういうのは恥ずかしくないんや」とツッコんでいたけれど、
オチ=ゴールに向かうことに羞恥を覚えるくーちゃんにしてみれば、
こういうのは「ゴールがみえないから」恥ずかしくない*4。
ゴールという「終点」を目指さない漂泊が「おもしろい」を帯びる奇特な芸人の機微。
「始点」と「終点」の間を整合的に結びつけるルーツがある。
「始点」と「終点」の間の探り探りの漂泊はルートになる。
わかりやすいルーツへの遡行はときに枷でもある。
たとえば、それは差別や偏見を生む。
その人が成したこと成さなかったことあらゆる言動が、
それ自体としてではなくその人のルーツに遡って否定的に意味づけられる。
「現在」の差別のために、先取りされた結論としての差別のために、
「過去」をめぐるルーツの物語がわかりやすい手に取りやすい資源として動員される。
そういう光景を、ぼくたちは日々どこかで目にしている。
だとすれば、人を「始点」に還元するだけではなく、
「始点」と「終点」の間を右往左往している人のルートに、もっと目を向けてもよい。
『ファミリーヒストリー』に心震えるその理由の幾分かが、
膨大な文書と人の証言の間で右往左往した番組関係者の姿が透けて見えること、
つまり、発見されたルーツそれ自体だけではなく、
そこへと至るルートの大変さが垣間見えることにあるように。
先週みたテレビでは、
「始点」と「終点」が収斂する地点に大竹しのぶが屹立しており、
「始点」と「終点」の間をくーちゃんがちょっと内股で彷徨っていた。
*2:番組によると、外国公使館に土地を貸すぐらいの大きな地主の家に生まれた母方の祖母・八重は、女学校時代に兄に連れられて内村鑑三の聖書の講談会に参加していて、いまの津田塾大学を卒業した後は、内村鑑三の聖書の講談会に参加して、そこで後の夫となる男性と出会うのだけれど、その後、夫とともに社会主義者・幸徳秋水と信仰を深め、非戦を訴えて投獄されるなどした秋水は渡米、それに夫とともについて行った八重は子どもを身ごもっていた。けれど渡米から数ヶ月後、夫が死去、八重は日本に戻ったのだけれど子どもを手放さなければならなくなって、そこからまた新たな情熱的な愛があり、キリスト教信者への「反戦分子」としての監視が厳しくなり…などなど。父方は父方で、そのルーツも地域で神様として祀られていたり…、などなど。