先週みたテレビ(12月22日~28日)

『ワイドナショー』KTV(12月22日)

 

 上に引いた松本人志の発言はあまり関係ないのだけれど、

 関西テレビでは先週22日の深夜に放送された『ワイドナショー』に、

 元宮崎県知事で元衆議院議員東京都知事選にも立候補していた、

 東国原英夫がゲスト出演していた。

 

 前から思っているのだけれど、

 タレント政治家は「タレントなのに政治家」なところが評価されているのだろうから、

 だとしたら、それはつまり「タレント」と「政治家」のギャップが評価されているわけだから、

 「タレント」の部分の能力がそれほど高くない人でも、

 いやむしろ「タレント」としての能力が低い人だからこそ、

 苦労や挫折からの復活・逆転の物語をひとつでもそのギャップに挟んでおけば、

 高評価を得られるという仕組みになっているのではないか。

 

 番組中、STAP細胞のニュースにコメントを求められたとき、

 コメントがすぐハゲネタに流れがちなことを松本に指摘されていた東国原英夫をみて、

 改めてそんなことを思った。

 

明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー2014』(12月24日)

 

 2014年の「名前を言ったとたんに合格」のパターンの最右翼、

 矢口真里新垣隆は電話をかけてこなかったけれど、

 今回はマツコ・デラックスが『明石家サンタ』にアシスタントとして飛び込み出演していた。

 本人いわく、『ヨルタモリ』の収録で来ていたのだけれど、

 『明石家サンタ』があると聞いて収録後に残っていた、とのこと*1

 

 で、突然画面に現れたマツコはとてもアシスタント然とした感じで、

 それはまるで「テレビでよくみる女性アシスタント」のパロディをしているようだった。

 

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 「自分をつくりあげたものの8割ぐらいはテレビだと思ってる」

 以前マツコはそんなことを言っていた*2

 

 なるほど、テレビの画面のこちら側からテレビを見つめ続けていたマツコは、

 テレビのこちら側の視点をもちつつ、身体をあちら側に置く。

 そのギャップを生きるところに、テレビのパロディが生まれる。

 

『朝まで!ドキュメント72時間』(12月28日)

 

 各所でちょっと話題になっているらしいNHKの『ドキュメント72時間』。

 そんな『72時間』の過去の回を振り返る特集番組が28日深夜に放送されていて、

 そこにマツコがコメントを寄せていた。

 

 マツコが一番好きな回は、国道16号線を神奈川から千葉にかけて1周し、

 そこで出会った人びとを取材した「オン・ザ・ロード 国道16号の“幸福論”」。

 自身もその沿線で育ったマツコによれば、国道16号線は都心の郊外として、

 「日本の平均的な人が住んでる」と言われたりもするけれど、

 そこを現に生活圏にする人たちは、

 「見た目だったり生活水準だったり思想だったりが、みんなおんなじではない」。

 「平均」とみなされる場所に実際にあるのは、さまざまな勢力の「せめぎあい」。

 そういった「いろんなものの境界線にあるところ」が、実は一番おもしろい*3

 

 ここで言われていることは、国道16号線の回に限らず、

 おそらく『ドキュメント72時間』の他の回についても言えることだったりもする。

 マツコの言い方を借りるなら、

 カメラを特定の場所に据える『ドキュメント72時間』の定点観測は、

 そこを行き交うさまざまに異なる人びとの「せめぎあい」を画面に写し取る。

 換言すれば、いつもは見えない人と人のあいだにあるギャップを浮き彫りにする。

 

 では、お互いのあいだにあるギャップを描写する『ドキュメント72時間』は、

 この社会の人たちがバラバラでつながれなくなっている現実を突きつけているのか。

 人と人との「絆」を拒むかのようにみえるそのギャップは、

 感情を動員した「感動」や「共感」の物語で埋められなければならないのか。

 

 いや、そのギャップを「感動」や「共感」の物語で埋めてしまうのはもったいない。

 

 わけることは、つなげることだったりする。

 わけられた双方は、あいだに広がる何かによって一対のものとして理解されるから。

 たとえば、42.195㎞の距離による隔たりは、

 異なる2つの場所をスタート地点とゴール地点に分離すると同時に、

 ひとつのマラソンコースとして結んでいる。

 そこでは、一方と他方がギャップを介してわかれている=つながっている。

 

 だとすれば、『ドキュメント72時間』が画面に写し取る人びとの「せめぎあい」も、

 ひとつのつながりのかたちだと言えるかもしれない。

 もしかすると、「平均」のルートにみんなが乗ることが難しくなった現在に、

 いまだ残されたつながりのかたちのひとつだと言えるのかもしれない。

 

 改めて、そのギャップを「感動」や「共感」の物語で埋めてしまうのはもったいない。