自分は「女子アナ」かもしれないという大久保佳代子の気づきから始まる話 : 先週みたテレビ(3月9日~15日)

『ごきげんよう』(3月10日)

 

 オアシズ大久保佳代子ますだおかだ増田英彦がゲストだった先週10日の『ごきげんよう』。

 「半分OL、半分芸能人だったときが一番モテた」と語る大久保。

 「それが女子アナなんですよ」と指摘する増田。

 そこで大久保は気づく。自身が「女子アナ」であったことに。

 

 大久保の自覚が適切かどうかは、さっそくひとまず置いておこう。

 なるほど、大久保と増田の話からうかがえるように、

 「女子アナ」には「華やかな芸能人」と「ちゃんとしたOLさん」の両面が、

 あると言えるのかもしれない。

 

 元TBSアナウンサーの小島慶子も、

 壇蜜ミッツ・マングローブとの鼎談で、次のようなことを語っていたことがある。

 いわく、「女子アナ」とは、「無欲なふりをして欲望を具現化する仕事」である*1

 欲望の発散と抑制、華やかさと地味さが「女子アナ」には同居する。

 そしてそれは、「男がみたい女」のひとつの表現のかたちである。

 「壇蜜さんは男の人がみたい女の人を『こうでしょ』って(みせる)。女子アナもそうじゃん」

 「つまり、昼、男がみたい女は女子アナで、夜、男がみたい女は壇蜜さん」*2

 

 「昼、男がみたい女」と「夜、男がみたい女」の峻別と連続性。

 「女子アナの清廉性」を理由とした日テレの内定取り消しの件を、なんだか思い起こさせる指摘だ。

 小島の指摘を広げるならば、「女子アナ」に求められる「清廉性」とは、

 「昼、男がみたい女」としてのそれ、ということなのかもしれない。

 そしてそれは、欲望の発散と抑制のバランスが変化することによって、

 「夜、男がみたい女」への反転が準備された存在なのだ、と。

 その表裏の関係を露骨に示すサインは、昼の世界では取り除かれなければならないのだ、と。

 

 「女子アナ」をめぐるこういった話は、

 最近話題になって削除された、ルミネのPR動画を連想させもする。

 

 補助線を引こう。

 TBSを定年で退職しフリーアナウンサーとなった吉川美代子は、

 「私には女子アナは語れません」と語る。

 なぜなら、「女子アナ」と「女性アナウンサー」はちがう仕事だから*3

 

 「女子アナ」と「女性アナウンサー」のちがい。

 その背景にある「男がみたい女」という欲望の流れ。

 それはなんだか、あの動画にあった「需要」という言葉を、

 そしてあそこに出てきた2人の女性の対比を、なんだか想起させる。

 

 と、「女子アナ」の範囲を超える問題に話題を拡大すると、

 その準備がないぼくにはオーバースペックだ。

 そもそもルミネって吉本の劇場の名前だと思っていたし。

 オアシズ・大久保の気づきから遠く離れたところに来た感があるし。

 

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 ので、最後に、今に連なる「女子アナ」の契機とも言われるフジテレビの、

 1988年入社組のひとりが先週のテレビで語ったエピソードを紹介して終わりたい。

 

 先週15日に放送された『ボクらの時代』。

 フジテレビに1988年にアナウンサーとして入社した八木亜希子が、

 「女子アナの清廉性」の話題で思い出したこととして、

 次のような新人時代の出来事を話していた。

 

 入社して3か月の研修が終わってアナウンス部に配属される直前、

 新人の有賀さつき河野景子と八木の3人は、

 フジサンケイグループのゴルフコンペのプレンターの仕事を頼まれた。

 

それ、はじめてのお仕事よ。当時のアナウンス部長が、「いやー、それが困っちゃったんだけど、バニーガールの格好でやってくれって言うんだよ」。今まで「ラララ」とか研修やってたのは一体なんだったんだろうとか、どういう会社にきちゃったんだろうと思って。で、3人で相談して「すいません、お願いですから、せめてテニスのスコートにしてください」とか言って頼んで、結果ゴルフウェアになったんだけど、一体何を頼んでるんだろうって思った記憶もあって。今は知らないよ。今は時代も変わってフジテレビもきっと変わってるだろうから。当時のフジテレビはやんちゃだったから、もっと。なんかクラッシャー的な人が多かったから。自分たちを壊されることが多かったので。*5

 

 「夜、男がみたい女」に反転する準備が整った「昼、男がみたい女」。

 「女子アナ」の始点を垣間見るエピソードだったりするのかもしれない。

 

 さて、テレビのこちら側は「女子アナ」になにを「需要」しているのか。