食レポと自由:先週みたテレビ(3月12日~18日)

わかりやすさと単純化

 わかりやすさと単純化はちがう。そんな話を、先週17日放送の『100分deメディア論』で聞いた。

 毎週月曜日に放送されている『100分de名著』の特別版であるところの、今回の『メディア論』。4人の識者とともに、メディアに関わる4冊の本を読み解いていった同番組は、メディアと社会の関係についての普遍的な話、「空気」による支配や屈折したオリエンタリズムといった特殊日本的な話に加え、文書の書き換え問題であったりとか、それを伝えるマスコミのあり方であったりとか、そういう現下進行中の状況とシンクロするような内容もあり、とてもおもしろく刺激的だった。

 そんな番組のなかで、思想史を専門とする中島岳志は次のように言う。「わかりやすさと単純化を、はき違えてはならない」

 

中島「わかりやすさっていうのは、人間の非常に複雑ないろんな営みを、丁寧に解き明かしていくこと。それを単純化と履き違えて、Aだって言い切ったりとか、AですかBですかっていう二元論にしてみたりとか、そういうことが多くある」*1

 

 しかしぼくたちは、特定のなにかを悪玉と捉えて理解するような、単純化された情報をときに嬉々として受け取りがちだ。場合によっては、自分から発信することもある。なぜか。

 社会学者の大澤真幸は次のように言う。「人間って本能的に好奇心をもってて知りたがってるって思ってるかもしれないけど、そんなことないです」

 

大澤「人間は基本的に、一定以上は知りたくないっていう構えをもってる感じ。つまり、すでに知ってることはおおむね安心なんですよ。安心するところで止まりたいんですよね」*2

 

 ぼくたちは単純化された情報に安住しやすい性向をもっている。意識しないと、「わかりやすさ」を志向するのは難しい。

 

オードリー・若林は食レポをする

 加えて、メディアの特性が単純化を加速する。特にテレビは時間的な制約もあり、情報を大きく縮減しなければならない。そのため、単純化が起こりやすい。

 たとえば、オードリー・若林は以前、こういう話をしていた。

 

若林「短時間にわかりやすくテレビって演出していかなきゃいけないから、白か黒か、善か悪か、そういうふうにもってくる。3つの意見があるよっていうのは、なかなか盛り上がらないんだよね。だから自分(の考え)と逆のことを(出演者として)促されてるときに、まぁ、金もらってるからやんなきゃなと思ってんのよ」 *3

 

 若林はテレビが仕掛ける情報の単純化に違和感を覚える。ただし仕掛けられたその場では、単純化を飲み込む。なぜなら、仕事だから。しかし、同じく仕事として、別の場でその違和感を吐露する。

 

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 先週18日放送の『ボクらの時代』でも、次のように若林は言う。食レポは「銃口が向けられるような状況」だ。なぜなら、「おいしくない」と言うことができない状況で、料理の感想を言うことが求められるから。

 単純化される味の表現。オードリー・若林は「銃口」をつきつけられながら、食レポをする。そして、その「銃口」の存在を、こんなふうに別の機会に、テレビのこちら側にレポートする。

 

キングコング・西野は食レポをしない

 食レポで「銃口」をつきつけられたタレントは、何を迫られているのか。キングコング・西野に言わせると、それは「ウソをつくこと」である。

 先週17日放送の『SWITCHインタビュー 達人達』で、西野は次のようなことを話していた。

 

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 芸人であり絵本作家でもある西野は、クラウドファンディングで絵本を制作した。資金を募る際に西野がまずしたことは、スケジュールを整理することだったという。クラウドファンディングに必要なのは、この人になら投資してもよいと思われるような、その人の信用である。そのため、信用を失うような仕事、つまりウソをつかないといけない仕事はしないと決めた。

 ウソをつかないといけない仕事として西野が具体的にあげたのが、おいしくないものでもおいしいと言わなければいけない、食レポである。

 

西野「とにかくウソをつかなきゃいけないような仕事は全部断って。たとえばグルメ番組で、おいしくないものが出てきたときに、タレントはそれ食べて、おいしいって言わなきゃいけないんですよね。マズいって言っちゃうと、仕事が減るし好感度が下がるし」*4

 

 おいしくないものをおいしいと言い続けること。そうやってテレビに出続けること。それは西野に言わせれば、認知は得ることができるが、人気が下がるということを意味する。認知タレントにはなれるが、人気タレントにはなれないということを意味する。

 

西野「世の中で人気タレントって紹介されてる人のほとんどは、認知タレントですね。みんなが知ってる、っていう人です。人気タレントっていうのは、信用がある人です。発信したらちゃんと反応があってっていうのが、信用がある人です」*5

 

 ウソをつかず、ホンネをしゃべる。それを突き詰めるプロセスの上に、いまの西野亮廣のポジションはある。

 ウソをつかざるを得ない環境から離れ、「銃口」から逃れた西野は、ウソをつかせる環境の側に、そのままでよいのかと「銃口」をつきつけている。

 ただ、西野がもつその銃に実弾が入っているのか、空砲なのかは、ぼくにはちょっとよくわからない。

 

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人間が一番自由になるとき

 改めて『100分deメディア論』に戻って。番組の最後、これからのメディアに求められるものはなにかと聞かれ、大澤は次のように言う。「人間が一番自由になるのは、問いかけてるとき」

 

大澤「答えを出したくなるじゃない、番組つくると。だけど、答えがない、でもここに問うべきことがありそうだ、っていう番組だよね。問いを投げかけるみたいなのをね、これからマスメディアはやるべきだなと思うんですよ」*6 

 

 メディアは簡単に答えを出しすぎる。ぼくたちはそれに安住しがちだ。けれど、安心と引き換えに、単純化された答えのなかに閉じ込められることになる。

 対して、答えではなく問いを示すこと。さまざまな答えとそれを導き出すプロセスに開かれたフィールドをつくること。みるものをそのような自由へと誘う役割が、本来はメディアに求められるのだ。そういう意味合いの話として、ぼくは大澤の話を聞いた。

 翻って、突きつけられた「銃口」に対して異なる態度を示す2人。テレビの内側や外側でメディアの単純化に抗するようにみえる彼らの姿に、個々の主張に違和感を覚えることはあるとしても*7、ぼくは魅力を感じる。

 それは、問いかけをやめない姿を彼らにみているからかもしれない。少しでも自由を志向しようと模索する姿を、意識下で感じ取っているからなのかもしれない。

 

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 というような話はおいておくとしても、『100分deメディア論』はとてもおもしろいインパク知な番組だった。再放送は4月22日(21日深夜)の予定だそうです。ぜひ。

 

 

*1:『100分deメディア論』2018年3月17日

*2:『100分deメディア論』2018年3月17日

*3:『ご本、出しときますね』TVO 2016年8月16日

*4:『SWITCHインタビュー 達人達』2018年3月17日

*5:『SWITCHインタビュー 達人達』2018年3月17日

*6:『100分deメディア論』2018年3月17日

*7:自身の作品を人びとの日常生活に織り込むためにたとえば通貨をつくりたい、俗世間をファンタジーにしていきたい、子どものころに絵本でみたようなみんながニコニコしている未来を自分の方から迎えに行きたい、というような西野の構想は、比喩的な話なのかもしれないけれど、ぼくは違和感を覚える。そんなビッグブラザーはちょっと敬遠したい。