平成と『めちゃイケ』が終わる:先週みたテレビ(3月26日~4月1日)
平成が終わる
来年には平成が終わる。テレビでは「激動の平成を振り返る」というような番組やコーナーがこれから量産されるのだろう。池上彰が解説したり、小島瑠璃子がいい質問をしたりする機会も増えるのだろうと思う。
流行ったファッションを振り返ってみましょうということで、小島瑠璃子がルーズソックスを履いたりアムラーになったりとかいうこともあるかもしれない。みちょぱがジュリセンを振ったりすることもあるかもしれない。石田純一が再現VTRに出まくると思う。岡本夏生を目にすることは、まだしばらくないと思う。
あと、芸人で手相占い師の島田秀平が「平成線」とか言い始める、なんてこともあるかもしれない。どんな運勢の線か知らないけど。
先週30日の『全力!脱力タイムズ』のスペシャルでも、平成の終わりを前に、「語りつくせぬ多くのニュース」があった30年間の歴史が振り返られていた。当然のように、ねじれた感じで。
振り返られた歴史は次のとおり。
・平成元年1月8日 新元号「平成」開始
・同年同月20日 ジョージ・H・W・ブッシュ大統領就任
・同年同月23日 サルバドール・ダリ死去
・同年2月4日 金融機関で週休2日制スタート
・同年同月9日 手塚治虫死去
・同年同日 マイク・タイソン離婚成立
・同年同日 田無で旧石器時代の遺跡を発見
月単位どころか日単位の細かすぎる平成史。「月単位でいくの?」「このペースで収まんの?」とツッコむゲストの小藪一豊に対し、MCのアリタ(くりぃむしちゅー・有田)は言う。
「先ほど1か月ごとにやるのかっておっしゃいましたけど、うちの番組はそんな荒いことはしません。1日ごとにやらせていただければ」
なるほど、歴史とは解釈である。1日1日に取り上げることができる出来事が無数にあり、報じられているニュースが数多ある。しかしそのすべてを取り上げることはできない。現在の観点からそのなかで何をピックアップし、どのように並べ、歴史として語りあげるか。平成という直近の歴史であったとしても、そこには編成する者の解釈が入り込む。
特に意味のない手のシワから何かしらの意味を読み取るのが、占い師であるように。
『めちゃイケ』が終わった
来年には平成が終わる。平成が始まって少しして前身番組が開始された『めちゃイケ』も、先週31日、平成が終わる少し前に最終回を迎えた。
『めちゃイケ』については書きにくかった。
『めちゃイケ』は、メンバーの人生模様を追うドキュメンタリーとしてガチな方面にも、台本を前提としたフィクションとしてメタな方面にも解釈することができる。なので、ガチ成分とメタ成分をどのぐらいの配合で混ぜ合わせて書き留めればよいのか、ぼくのなかでなかなか筆致が定まらなかった。
ガチ成分が多めだと、いやいや、それはお約束じゃないですか、と自分のなかでツッコミが入る。メタ成分が多めだと、いやいや、人間的な部分もにじみ出てるじゃないですか、と自分のなかでツッコミが入る。途中で書くのをやめることも多かった。
『めちゃイケ』らしい感動路線についても、あるころまでは辟易していた。でも、2008年のオファーシリーズでの岡村のテニスとか、2011年の『27時間テレビ』の矢部のマラソンとかをみたときに、なるほどナイナイはこれから誰かが追いかけようとしても追いつくことができないところに来ているのだな、と感服した記憶がある。でも、感動路線への違和感を拭えたわけではない。さて、どう書いたものか、という感じがあった。
そもそも『めちゃイケ』は、感動してしまう、あるいは感動を喚起してしまう自分たちの振る舞いに、自分たちで率先してツッコミを入れていく番組だ。そこに改めて外野からツッコミ的なものを重ねるのも、なんだかな、という気分もあった。
最終回は5時間ほどの長尺でお送りされた。シャンプー刑事とかMの3兄弟とかしりとり侍とか、懐かしいコーナーも放送された。中居とか江頭とか錦野旦とか、番組ゆかりの人たちとの絡みもあった。錦野旦が置いていかれるくだりは、久しぶりに思い出しておもしろかった。基本的には、昔の『めちゃイケ』をふりかえるノスタルジックな基調で約5時間の番組全体がお送りされていた。
ただ、新メンバーオーディションの後のことについては、綾野剛だったり小栗旬だったり、ゲストとして単発的に出演した人物に焦点があたっていて、それはつまり番組後半は、企画それ自体が強いインパクトを残していないことを示しているようでもあった。それは野猿だったり昔のコントだったりのVTRを中心にお送りされた『みなさんのおかげです』の最終回も、同じではあったのだけれど。
最後の1時間ぐらいは、メンバーそれぞれが番組を終えるにあたってのスピーチを行った。岡村の架空の結婚式の友人スピーチというテイをとることで、ツッコミを確保しながら。しかし、岡村をはじめ、涙する者も。で、明石家さんまがパーデンネンの格好で出てきて、目元を濡らす岡村に「テレビで泣くな」とツッコんでオチ。『めちゃイケ』っぽい終わり方だった。
番組のなかで印象に残ったのは、極楽同盟のところ。紫雷イオのパフォーマンスに驚いた。ぼくはプロレスに無知なので、紫雷の存在自体、はじめて知った。こういうかたちでないと目にする機会もなかったかもしれない。ノスタルジーもエンタメだけれど、新しいことを知ることのほうがワクワクはする。
そういえば最終回の直前に、芸人メンバーがネタで勝負する回があったけれど、これまであまりみたことがないオアシズの漫才が、なんだか一番よかったな、ということを思い出したりもする。
あと、最後にメンバーそれぞれが「あなたにとって『めちゃイケ』とは」という問いに一言ずつこたえていたのだけれど、光浦の「宗教」とか加藤の「組的な感じ」も印象的だったけれど、重盛の「すごく芸能人気分を味あわせていただいた番組」という答えが、仲間とか絆とか攻めるとか戦うとか時代の顔色をうかがわないとか、そういう『めちゃイケ』っぽさからあまりにも自由で、なんだかおもしろかった。
無名の芸人たちが有名になっていき、芸能人としてのポジションを上げていくプロセスが『めちゃイケ』の歴史に重なっていたのだとするならば、そしてその上昇のプロセスが番組に勢いをつけていたとするならば、番組の転換期に加入した新たなメンバーの1人による「すごく芸能人気分を味あわせていただいた番組」という最終的なふりかえりには、番組の成熟と停滞の重なりを深読みしたくもなった。
雑駁でまとまりに欠ける記事になってしまった。とりあえず、10代のころに強い印象を受けた『めちゃイケ』の終わりに際して、ブログのうえに脈絡に乏しいシワをいくつか刻んでおく。