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逃げるについて:先週みたテレビ(2月13日~19日)

先週みたテレビ

『カルテット』(2月14日)

 

 ある社会学者の本のなかに、

 いまはリアルから虚構へ逃げ込む「現実からの逃避」ではなく、

 より強烈なリアルを求める「現実への逃避」が広範囲でみられるようになってる、

 みたいな現状把握があったと思う。

 あまり理解していないので正確じゃないかもしれないし、

 正確であったとしてもぼくにはその理路を説明できないのだけれど。

 

 だけどたとえばテレビのなかでも、

 若手の芸人に収入を言わせるのがなんだかトレンドだし、

 人気MC坂上忍の口癖は「オマエだってやることやってんだろ」だったりするし、

 「よりリアルなもの」への志向は一定支持されていたりするような気はする。 

 それが逃避かどうかはともかくとして。

 

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 で、「逃避」と言えば、『逃げるは恥だが役に立つ』。

 その同じ枠で現在放送されている、ドラマ『カルテット』。

 

 先週はどんな話だったかというと、

 小学校のころ自分のクラスを毎年学級崩壊に追い込んだり、

 Apple Store勤めの元カレを朝からパチンコに並ぶような男にしてしまう、

 学生のころのアダ名が「淀君」な吉岡里帆演じる元・地下アイドルが、

 スパイとして情報をこっそりと探ってくるように求められたのに、

 ノーパンのアサシンとして毒針を堂々と見せつけながら情報元を殺ろうとする、

 そういう話だった。

 よくわからないかもしれないけれど、そういう話だった。

 

 で、こんなことを言ったりしていた。

 

「この世で一番の内緒話って、正義はたいてい負けるってことでしょ。夢はたいていかなわない。努力はたいてい報われないし、愛はたいてい消えるってことでしょ。そんな耳ざわりのいいこと口にしてる人って、現実から目背けてるだけじゃないですか」*1

 

 フィクションの世界であるところの地下アイドルの世界にいた人物が、

 リアルであれと、ノーパンであれと、

 他者に強く求めるのがなんだか生々しいわけだけれども、

 ことほどさように、しばしば反動として、

 現実から逃げるな、と言われる。

 キレイゴトを言うな、とも言われる。

 やることやってんだろ、とも言われる。

 つまりは現実から虚構に逃げるな、と言われる。

 あるいは「志のある3流は4流だからね」と言われる*2

 「趣味にできたアリは幸せだけど、夢にしちゃったキリギリスは泥沼で」とも言われる*3

 

 いやもちろん、やることはやっているわけだし、

 志や夢だけでご飯がまったく食べられないよりは、

 いくらか食べられたほうがいいのだけれど、

 ご飯を食べ過ぎるのは嗜癖だし、

 やることをやりすぎるのも嗜癖だし、

 大量のテレビの書き起こしももちろん嗜癖だ。

 

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 アルコール中毒が現実からの逃避であり、同時にアルコールへの逃避であるように、

 必要以上に現実的であることを求めるのもまた、現実への逃避の面があるのだろう。

 アル中ならぬ、リア充ならぬ、リア中なのだろう。

 

ワイドナショー』(2月19日)

 

 春の便りも聞こえ始めた今日このごろ、

 新大学生や新社会人がデビューするよりも前に、

 清水富美加が千眼美子として「出家しまする」とデビューした。

 と思ったら今週になって不倫が云々という話にもなって、

 出家デビューというか瀬戸内寂聴リバイバルの様相。

 

 で、そんな千眼の出家をめぐる経緯に対しては、

 仕事放棄だとか、無責任だとか同業者から批判されたりもするようなのだけれど、

 それに対して先週の『ワイドナショー』で社会学者・古市憲寿が、

 「じゃあ逆に芸能界はこれまでちゃんと法律とか守ってきたのかな」

 というように、それはそれでもっともな切り返しをしていた。

 

 加えて、のん(本名・能年玲奈)の元・所属事務所だったということもあって、

 今回の千眼美子(本名・清水富美加)の件についてもネット上では当初から、

 当該事務所の若手のタレントの扱いについて批判的な声があって、

 番組内でも事務所に問題があるのなら「逃げればいい」という意見が、

 あがったりもしていたのだけれど、

 それに対しても古市が次のように意見していて、

 やはりそれはそれでもっともだと思った。

 

古市「清水さんの場合2世じゃないですか。だからさっき『逃げればいい』って話ありましたけど、ホントはもっと逃げる先は宗教だけじゃなくて、組合とかもっと違う友人なのかがいればよかったんだけど、幸福の科学とか何信じるかは自由ですけど、ただもともと家が幸福の科学だったわけで、ホントにニュートラルにその宗教を選んだかどうかってわからないわけじゃないですか」*4

 

 選択の自由を寿ぐ前に、選択肢のラインナップが問題でしょう、という話。

 その別の具体例のひとつとして、先週の『5時に夢中!』の美保純がしていた話。

 

美保「私が(若い頃に)いた事務所は私しかいなくて、他のマネージャーとか社長さん夫妻とか、全員がある宗教に入ってたんですよ。だから(事務所の人に)悩みを言うとその宗教に入れられそうになって。ちがう自己啓発セミナーとかいう人に知り合って、悩みを言いに行ってました」*5

 

 逃げるは恥だが役に立つのだとして、

 でも、逃げ先の選択肢が自分が選ぶ前に選ばれているのだとしたら、

 それはもう選択していることにも逃げていることにもならないし、

 そこで個人の責任や自由だけを問題にしても、という気はする。

 「私のときは月給3万円だった」とか、より過酷なリアルへと逃げ込んでも、

 という気もする。

 

 もちろん、巻き込まれた関係者は迷惑なんだろうけど、ぼくは巻き込まれてはいない。

 うまくまとまらないブログ記事を横目に、ぼくはぼくの現実なり嗜癖なりに逃げる。

 

分断について:先週みたテレビ(2月6日~12日)

先週みたテレビ

クローズアップ現代+』(2月7日)

 

 「真実ではなくて感情的に心を揺さぶられればそれでいい」

 といった態度が大きく世の中を動かしている状況。

 それを「ポスト真実」と言うらしい。

 アメリカの大統領選で影響力をもったとも言われるフェイクニュースを特集した、

 先週の『クローズアップ現代+』で池上彰が解説していた。

 そうだったのか!ポスト真実

 

 という具合に、池上彰はいつだってテレビのこちら側のぼくに向けて、

 感覚的に飛びつきたくなる「真実」を提供してくれるわけだけれども、

 なるほど確かに、

 嘘のニュースを発信するネットユーザーと、

 それをおもしろがって拡散するユーザーと、

 そんな動きを利用する為政者と、

 あるいは為政者の側から積極的に発信される嘘の情報と、

 そんな予測が難しい複合的な動きが、

 最近なんだか変な方向に世の中をもっていっていますね、

 みたいな感じはあるような気がして、

 で、池上が以下のように言うように、そういった動きのインフラに、

 自分の見たい情報だけを見ることのできる、

 信じたいことだけを見ることができるインターネットの環境が、

 あったりするのだろう。

 

池上彰「インターネットが始まったときは、あらゆる情報をみることができる夢のように語られたんですが、結局いまは、みんな信じたいことだけみるってことによって、ホントに個々にバラバラに分断されてるなと思う」*1

 

 ぼくたちを「つなげる」と考えられていた、

 そのインターネットが、むしろぼくたちをバラバラに「分断」している。

 ときにそれは、「おもしろい」という感情を動力として。

 

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 だから池上は番組のエンディングで、

 テレビの向こうからこちらに向けて、

 「おもしろければいい、それでいいのか」と疑問を投げかける。

 そして同時に、同業者に向けても、

 実は既存のメディアも同じことやってんじゃないですか、と自戒を迫る。

 

池上彰「ネットでも『おもしろい』って言って拡散する。それでいいんだろうか、ということなんですけど、実は既存のメディアも、要するにおもしろいニュースだからいいっていうように、実はやってるんじゃないか。おもしろければなんでもいいのかっていうことを、私たち自身が自戒していくこと。大事なニュースは何なのかっていうことを、ちゃんと伝えていくこと。それは私たちがもっと自戒しなければいけないんじゃないか」*2

 

  番組のオープニングで、

 「日本で元祖のフェイクニュースの被害者はワタクシでございましてですね」

 と言って「デーブ=日本人」ネタの東スポの記事を取り出したデーブ・スペクターは、

 さて、エンディングの池上の言葉をどのように聞いていたのか。

 それをぼくは知らないし、いや、知ってどうなるというわけでもない。

 

 知ったほうがいい真実よりも、

 知らないほうがいい真実よりも、

 知っても知らなくてもいい真実のほうがこの世には多いのだ。

 

 『ワイドナショー』(2月12日)

 

 新社会人を対象とした「理想の上司」調査の1位に内村光良

 というニュースを受けて、

 いやナンチャンも忘れないでね、とバカリズム

 ナンチャンは社交的だし、ご飯に連れて行ってくれるし、と。

 

 けれど、むしろそういう社交的だったり、

 ご飯に連れて行ってくれたりする上司がむしろ避けられているのかもしれず、

 ひとりでチャーハンを食べるような上司だからこそ選ばれているのかもしれず、

 それはつまり対案の説得材料がむしろ既存案の補強材料に使われかねないのかもしれず、

 なるほどここにも分断がある。

 

 だけれども。

 

 同番組でバカリズムは言う。司会者になりたいとは思わない、と。

 

バカリズム「昔だったらゴールデンでコント番組ができたりとか、好きなことができるっていうイメージだったんですけど、いまそういう感じでもなくて、好きなことやろうと思うとまた別の場所で、深夜だったりとか。ボクは分がやりたいなって思うこととか、作品を発表することはできてるんで、そこでみてもらえればっていう。そっからたぶん(人によって)変わってくるのは、司会者になりたいかどうかの問題だけだと思うんですよ、あと。それで司会者になることが成功の人は、ゴールデンでどんどんやっていくと思うし、そこが最終的なゴールじゃない人はまた…」

東野幸治「自分のなかの居場所をみつけるっていう…」

バカリズム「そういう時代になってきてる気はしますね」*3

 

 芸人が目指すべきゴールはゴールデンタイムのMCになることだけではなく、

 いまはもうそれぞれが「自分のなかの居場所」をみつける時代なのだ、と。

 いや、「時代」とかいう言葉を使うとなんだか大仰な感じがするけれど、

 そんな感じの流れになってきているのだ、と。

 そうバカリズムは言う。 

 

 つまりこういうことだ。

 なるほど、そこかしこに分断がある。

 でもそれは、そこかしこに選択肢があるということでもある。

 バカリズムが指摘するように、

 ゴールデンタイムのMCとは別の道にキャリアを見定めることは、

 本来あるべき流れに乗れない者の妬みだとか僻みだとかいうことではなく、

 それぞれの「居場所」として肯定されうる。

 それぞれの素敵な選TAXIの走路として、それはそれでよいとされる。

 

 おのおのが信じたいことを信じて個々にバラバラに分断されることと、

 おのおのの居場所をひとつの選択肢として相互に侵害しあわないことは、

 たぶん裏表の関係にあるのだろう。

 

 排除しあう分断線と許容しあう分岐線を選り分けることは難しい。

 だからその線の前でぼくは立ち尽くす。

 「それはそれでいいよね」「個人の選択の自由だよね」

 「正しいとか間違ってるとかじゃなくて、個人的な好きとか嫌いとかだよね」

 「真実が何かよりも自分がどう思うかだよね」

 「知っても知らなくてもいい真実ってあるよね」

 そんな声が周囲から聞こえ、ときにぼくも口にする。 

 

 その前を先週、女優が「出家します」と歩いていった。

 

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