テレビ日記・追記(3月10日~16日)

  ウェブ媒体で書かせてもらっている記事の、分量的に入らなかったり、文脈的に収まらなかったりした文章を掲載するエントリー。

 

 今回は、記事のタイトルはベッキーだけど、山田隆夫がおもしろいかどうかの判断は留保しようという話の続き。

 

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伊集院光「全部入ったものの状態できちんと留めとくみたいなことは、もっともっとあっていい」

 

 本編にも書いたけれど、ぼくは『笑点』の山田隆夫の挨拶を楽しみにしている。楽しむコツは何かと言うと、山田の挨拶がおもしろいのかつまらないのかといった判断を一切行わないことだ。つまらないことがおもしろいとかも無しだ。「おもしろい」かどうかの判断がなくとも「楽しむ」ことはできるし、そのあたりを曖昧にしておくからこそ末永く楽しめる。そんなことがあると思う。

 

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 13日放送の『ホンマでっか!?TV』。アメリカで子どもが勝手に「ドールハウスを買って」とスマートスピーカーに言うとドールハウスが届いてしまい、更にその出来事を伝えたテレビのニュースでアナウンサーが「ドールハウスを買って」と原稿を読むと、その声に反応して視聴者のスマートスピーカーが反応した、という話をネットトラブル専門家がしていたのだけれど、それを受けて磯野貴理子がこんなことを言った。

 

「小倉さんがやってる朝のワイドショーで、『あまたつ!』って言ったら、(スマートスピーカーが反応して)『あまたつ』っていう店の名前の天ぷら屋さんが出てきた」

 

 16日深夜に放送されていた『おやすみ日本』。視聴者から寄せられた「スプーンがまげられなくてモヤモヤして眠れません」というようなお悩みメッセージを受けて、この日のゲスト、オカルトの話題に造詣も深い大槻ケンヂが、自分がこれまで出会ってきたなかで最もうまくスプーンを曲げることができるのは松尾貴史で、どちらかというと超能力に懐疑的な松尾は独学で技術を身につけてスプーン曲げができるようになり、超能力者ごとの曲げ方の特徴までコピーできるようになったという話をしていたのだけれど、そんな話の最後に大槻は次のようなことを言う。

 

「僕は思ってるんだけど、たぶん松尾さんは、本当に超能力者なんだと思う。隠蔽工作だと思う」

 

 15日放送の『ネタパレ』。金属バットが漫才をして、その導入の部分、というかまだ二言三言、挨拶をしたぐらいの段階で客席から少し笑い声があがったのだけれど、それに対して2人は次のように反応していた。

 

小林「お?」

友保「なんじゃい。なんじゃいなんじゃい」

小林「むっちゃウケるやんけ」

友保「ちょろいね今日は」

小林「R-1のお客さんちゃうん、これ」

 

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 11日放送の『100分de名著』。この日は夏目漱石の小説『夢十夜』が取り上げられていて、解説の先生によると、夢の話が題材になっているこの小説では言語化しにくいあやふやなものが描かれており、いかようにも解釈できる、でも、だからこそ、作品中に出てくるわからないものを解釈で読み解いてしまうのではなく、わからないものをわからないままに受け止めることも大切ではないか、そのような態度のことを「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼んだりもするのです、と説明が続いたのだけれど、そのようなもろもろの話を受けて番組の最後に伊集院光は総括する。

 

「それはおもしろい話なの? 悲しい話をして。この出来事は良かったの? 悪かったの? ってやりがちなんだけど、全部入ったものの状態できちんと留めとくみたいなことは、もっともっとあっていい」

 

 13日放送の『又吉直樹のヘウレーカ!』。「ボクらはなぜ”絵”を描くのか?」と題してお送りされた今回は、チンパンジーはいつまでも殴り書きの絵(のようにみえるもの)しか描けないのに、どうして人間は3歳ぐらいになると人や車など具体的な物を描けるようになるのか、という問いから始まったのだけれど、細かい理路を飛ばして答えを言うと、それは人間が言葉を獲得したかららしくて、さらに言えば、言葉を使えるようになったために人間は周囲の事物の情報を圧縮し、概念として理解し、頭の中のイメージに合わせて絵を描けるようになったのだけれど、その代わりに普通の人は言葉で切り取られて標準化された、キャラクターのような絵を描くようになり、見たままを写実的に描くことが難しくなったらしいのだけれど、と、ここまで説明するともう細かい理路はあまり飛ばされていないのだけれど、とにかくそんな話を受け、又吉は自身のフィールドであるところの文学に引きつけて語った。

 

「慣用句ってあるじゃないですか。よく使われる言葉とかが並んでる小説って、読みやすいし、すべて意味わかるんですけど、同時に、キャラクター化された絵と同じような印象を受けるんですよ。奥行きとかがあまり感じられないというか。『精神内部で違った方向に進む力と力がぶつかり合う関係』って言うよりも、『葛藤』って言った方が早いし。そんなことがいっぱい積み重なっていって。同じように慣用句全部開いていったら、酔うと思うんですよ。しんどいしんどいって。で、ボクそんなんが好きなんですよ。『何の話いま?』みたいにしてほしいんですよ、小説を読むときは。わかりすぎると忘れるんですよ。読めるけど読めへんわ、みたいな」

 

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 さて、お笑いのネタがおもしろいかおもしろくないかの基準はいつだって不安定だ。けれど、敏感すぎる笑い声で「おもしろい」ことにしておかなければこの時間が耐えられないとでも言うように、いつだって「おもしろい」ことに脅迫的にならないといけないわけではないだろう。磯野貴理子の話が実話なのか作り話なのかあやふやなように、超能力はあるのかないのか最終的にはボヤかされるように、そして磯野貴理子だったか磯野貴理だったかいつもわからなくなるように、「全部入ったものの状態できちんと留めとくみたいなことは、もっともっとあっていい」のかもしれない。情報が圧縮された慣用句を複雑な言葉の連なりに開いて「何の話いま?」みたいな状態にしておくようなことも、ときに大切なのかもしれない。そうすることで、忘れにくくなるのかもしれない。一瞬の笑い声で「おもしろい」に確定するよりも長い時間、楽しむことができるのかもしれない。

 

 だからやっぱり、山田隆夫の挨拶がおもしろいのかどうかの判断は留保した方がいい。

 

テレビ日記・追記(3月3日~9日)

 ウェブ媒体で書かせてもらっている記事の、分量的に入らなかったり、文脈的に収まらなかったりした文章を掲載するエントリー。先週からちょっとやっている。

 

 今回は、みやぞんに関する話の続き。

 

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みやぞん「僕、考え方で全部クリアしてしまうんで」

 コップに水が半分入っています。「まだ半分も残っている」と考えるか、「もう半分しか残っていない」と考えるか、あなたはどちらのタイプですか。こういう二項対立の問いかけは大抵、2つのうちどちらかに価値があることを前提に持ち出される。「もう半分しか残っていない」という考え方はやめましょう、「まだ半分残っている」とみたいにポジティブに捉えるのが人生を楽しく生きるコツです、成功する秘訣です、という具合に。――と、そんなことを考えている時点で、「もう半分しか」陣営の人間に括られてしまうわけだけれど。レッツ、ポジティブ・シンキング

 

 さて、いわゆる「天然」と呼ばれる芸能人のひとりであるところのANZEN漫才・みやぞん。9日放送の『サワコの朝』(TBS系)に出演し、こんなことを話していた。

 

「物事起きたことをすべてプラスにもっていく。(スリに遭ったとしても)お金をぞんざいに扱ってたからこういうことが起きたのかもしれない、じゃあお金に感謝するか(と考える)。全部ただじゃ終わりませんね。損しただけじゃ終わりたくないというか。すべてプラスに変えていきたい」

 

 こんなプラス思考のみやぞんは、おそらく「まだ半分も残っている」とストレートに答えるタイプの人なのだろう。ただし、ただの「ポジティブな人」とは違うような気もする。どういうことかと言うと、「コップに水が……」みたいな話を聞いて「まだ半分も残っている」と考えなきゃいけないと反省した人と、みやぞんの間には、ものすごく深い溝があるというか。同じポジティブでも人間としてのフォーマットが違うというか。

 

 番組の中盤、「失敗はしたことないの?」と阿川佐和子に聞かれたみやぞんは、こんな話をしていた。失敗はしたことがない、なぜなら失敗してもそれを失敗と思わないから、失敗からはこの方法では失敗するということが学べる、あとは前を向くだけだ。これを聞いた阿川は「何か嫌なことはないの?」と質問を重ねた。みやぞんは答える。

 

「僕、考え方で全部クリアしてしまうんで。たとえば、嫌な上司とかいたとしても、想像するわけですよね。僕の人生という舞台があったとしたら、最後のエンディングに、嫌な人が『みやぞんをいじめる上司役でしたー』って笑顔で出てくるんですよ」


 その嫌な上司は、実は役者なのかもしれない。自分の心を鍛えるために、何か嫌なことを言われても「ありがとうございます!」「もっと怒ってください!」と言えるようになるために、自分の人生という舞台に役者として登場した人なのかもしれない。だから最後、人生のカーテンコールで嫌な上司役の人も含めてみんなで肩を組んで「ありがとうございましたー!」と頭を下げる、そんなふうに考えると、次の日からその上司にも「ありがとう」と言える――。

 

 さて、このみやぞんの話、まるでウサギにもアヒルにも見える絵のようだ。人生を前向きに生きていくための秘訣を語っているようにも聞こえるし、初任者研修の洗礼を受けたブラック企業の社員の話のようにも聞こえる。初任者研修の講師の話のようにも聞こえる。

 

 ただ、この言葉はみやぞんの言葉である。ブラック企業の社員の言葉ではない。反省に基づきポジティブになる人は、それまでの自分の否定から入るわけだから、結局はネガティブ・シンキングを経由する。ネガティブをベースにポジティブを積み上げる。対してみやぞんは、ネガティブを経由しないポジティブであるように見える。その意味で、表面上は同じ「ポジティブな人」であったとしても、ベースとなる人間のフォーマットが根本的に違うのではないか。

 

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 番組ではこんな逸話も語られた。テニス部だったみやぞんは、中2で足を複雑骨折した。その骨折の瞬間、急に冷静になり、ギターを弾こうと思ったらしい。なるほど。で、みやぞんは実際にギターを練習し始めた。我流で。

 

「適当にですよ。なんかこうやって(ギターを)持って、なんだこの音、なんだこれ、なんだこれ、っていじってたんです。で、このAマイナーっていうんですか。この音はボクが自分で開発したと思ってたんですね」

 

 Aマイナーを教わらずに開発した(と勘違いしていた)みやぞんは、おそらくポジティブ・シンキングを自分で開発し、我流で構築している。

 

 みやぞんは「天然」である。天然ボケという意味で「天然」なだけではない。たぶん「天然」もののポジティブ・シンキングでもある。「天然」にはかなわない、というお話。