テレビ日記・追記(9月22日~28日):Eテレ『シュガー&シュガー』の記録

 日刊サイゾーで1週間のテレビを振り返る連載を書かせてもらっているのだけれど、ときどき、分量的・文脈的に本文に収められなかった文章の切れ端みたいなのが出てくる。それを追記としてブログで公開する。そういうエントリー。

 

 今回は、『アメトーーク!』の「このツッコミがすごい!」と、『ゴッドタン』の「お笑いを語れるBAR~漫才編~」についてまとめた話の続き。本文で「音楽もまたひとつの世界観の提示だ」と書いたけれど、それを書いたとき念頭にあったのは、先週と先々週に放送されたこんな番組だった。

 

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山口一郎「リズムが意味を上回る瞬間とかあると、ひとりでパソコンの前で踊りまくる」

 「最近の○○は××だ」みたいなことが言われるとき、本当は全然最近の話ではなかったりすることがよくある。たとえば、最近の長嶋一茂はちょっとおかしいとか。いや、ずっと前からそうだから。

 

 というわけで、「最近のEテレは攻めてる」とずっと言われている。

 

 そんなEテレで先週、2回シリーズでお送りされていた番組の2回目が放送された。番組名は『シュガー&シュガー』。サカナクションの山口一郎がお送りする、音楽実験番組である。あまり音楽に詳しくないので、みていて意味がわからない部分も正直あったのだけれど、なんだか面白かった。それこそ、「最近のEテレは攻めてる」と評価されるタイプの番組だった。実際には、民放がこの手の番組を今あまりやってないだけなのだけれど。

 

 9月18日の1回目の放送では、「音楽が映像に与える影響力の検証」と題して、BGMのついていない短い映像に音楽を乗せ、それによりどれほどみる側の印象が変わるのかを検証していたり、「演奏と言語表現の相違性についての検証」と題して、エレキギターの音だけで牛丼を注文しようとする男の寸劇のような映像が流れたり、「テクノロジーと円滑な人間関係の考察」と題して、妻からの問いかけに「ふーん」とか「そうなんだー」とか「聞いてるよー」とかいう声を登録したサンプラーで応答する夫というコントのようなものが放送されたりした。

 

 あと、妻夫木聡と山口がおでんの屋台のセットで、演じることや音楽を作ることについて語り合っていたりもした。

 

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橋本環奈「できないもどかしさも映像に切り取られてる」

 で、先週25日の2回目の放送。この日も、様々なコーナーで番組は構成されていた。

 

 「音楽とファッションのかい離性についての検証」と題して、ファッションデザイナー・森永邦彦とメディアアーティスト・真鍋大度が、写真に写った人物のファッションからどのミュージシャンのファンなのかを当てる将棋をやっていたりとか。

 

 「伝統芸能と現代音楽の親和性についての実験」と題して、サカナクションの「アルクアラウンド」を能楽師が演じていたりとか。

 

 「音楽における音楽家以外の重要性についての検証」と題して、夜、シャッターの閉まった店の前で山口がゲリラ的に「忘れられないの」を歌いだしたら行き交う人びとはどう反応するのかを見たりとか。

 

 で、1回目と同様におでん屋台のセットでのトークコーナーもあって、この日のゲストは橋本環奈だった。

 

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 山口は問う。自分は音楽を作為的に作るときもあれば、無作為に自分をそのまま吐露しようと思って作るときもある。演じる場合はどうなのか。

 

 橋本はこの問いに次のように答えた。

 

「どっちもあります。作為的に思われがちなんですけど、たとえば監督がOKだしたらOKなんですけど、もちろん映画は監督のものなので。なんですけど、自分じゃ全然お芝居できてないなって思った時でも、その役に、できないもどかしさも映像に切り取られてる」

 

 福岡のアイドルグループに所属していた橋本。この時期に撮られた「奇跡の1枚」を契機に、彼女は多くの人に知られることになった。あの写真もまた、作為と不作為が織りなしたもの。アイドルとして美しく・可愛く見せようとする舞台上でのパフォーマンスと、それを超えた一瞬の活写。演技の作為性と映像の不作為性を語る橋本の言葉に、彼女の来歴との重なりを思ったりもした。

 

 さて、上のような橋本の答えに、山口は「それ音楽にもあるよ」と反応する。

 

「ボクはこういう意味で(歌詞を)書いてて、すげぇダサいなって思ってても、他の人が見たり、1週間後に見直すと、全然違う意味をなしてたり。それが逆にいいなって思ったり。そこに感動したり。意味がハネるというか。そういうときは、なんかいいなと思うけどね」

 

 意味は他者によっても超えられる。新陳代謝を経た1週間後の自分もまた、1週間前の自分とは異なる他者だ。

 

 1回目の放送で、妻夫木に「(言葉と曲で)どっちのほうが比重が大きいとかあるの?」と問われた山口は、こんなふうにも語っていた。

 

「でも、言葉もリズムだからね。たまに、意味をなしてないんだけど、リズムが気持ちよくてそのまんまそれを歌詞にしちゃったりとかする。全然意味は通ってないんだけどね。リズムが意味を上回る瞬間とかあると、ひとりでパソコンの前で踊りまくる」

 

 言葉がつくる世界を、リズムが、他者が超えていく。意味がハネる。不作為によってハネる。山口は踊る。歓喜する身体が新たなリズムを刻みだす。 意味の外へ。私の外へ。しつらえられた世界の外へ。「最近のEテレは攻めてる」という定型句の外へ――。

 

 というわけで、最近始まったことではなくEテレはずっと同じことをやっているし、長嶋一茂はずっとおかしい。

 

テレビ日記・追記(6月2日~8日)

 日刊サイゾーで1週間のテレビを振り返る連載を書かせてもらっているのだけれど、ときどき、分量的・文脈的に本文に収められなかった文章の切れ端みたいなものが出てくる。もったいないので、追記としてブログで公開する。そういうエントリー。

 

 今回は、『脱力タイムズ』『99人の壁』、そして山里亮太の結婚について、「クイズ」や「問い」「答え」といったキーワードでまとめた話の続き。

 

 

佐藤二朗「さて、お父さんは次のうちどれでしょう?」

 

 毎回放送を楽しみにしている『99人の壁』(フジテレビ系)。その8日の放送では、ちょっと痺れる「イントロ」クイズが出た。それがどんな「問い」だったかは、本文に書いた。過去に出題された数多のイントロクイズは、この1問のための伏線だった。前置きだった。それこそ「イントロ」だった。そう言いたくなるような、エポックな「問い」だった。

 

 その『99人の壁』で進行役を務める佐藤二朗が、7日の『あさイチ』(NHK総合)に出演。『壁』での自身の立ち位置について語っていた。いわく、自分がやっているのはMCではない。

 

「あれは主宰です。主宰を演じてるんです。クイズ闘技場の主宰を演じてるんです」

 

 トークは佐藤のプライベートにも及ぶ。「最近お子さんに言われて一番パンチの効いたことがあったら教えてほしいです」。そんな視聴者からの質問を受け、まだ小さい息子とのこんなエピソードを披露していた。

 

「三択が流行った時期があって、息子がね。『さて、お父さんは次のうちどれでしょう? 1番、人間。2番、男。3番、ブサイク』って言われたことある」

 

 さて、いつもは「主宰」として挑戦者に立ち会う佐藤が、挑戦者として突きつけられたこのクイズ。ジャンルは「お父さん」だ。3択のうち、正しい「答え」はどれなのだろうか?

 

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明石家さんま「正解いらんねん」

 

 8日放送の『モモコのOH!ソレ!み~よ!』(関西テレビ)。中川家の2人がゲスト出演し、明石家さんまについて語っていた。兄の剛は最近、さんまの観察日記をつけているらしい。その日記の成果は、『さんまのお笑い向上委員会』で披露されている、さんまのモノマネにつながっているのかもしれない(最近はあまり見かけないが)。

 

 剛は語る。さんまとの雑談で、「アレなんやったっけ?」みたいな話になったことがある。そのとき、スマホで「答え」を検索しようとするマネージャーを、さんまが次のように言って止めた。

 

「正解いらんねん。いま、『アレなんやったっけ?』トークで楽しんでるから、正解出すな。終わってまうから」

 

 正解いらんねん。バラエティ番組で、さんまの口からよく聞く言葉だ。この教えは、子役のときからさんまにバラエティのイロハを教えられた、内山信二にも刷り込まれている。

 

「最近の人たちはね、いろいろ調べすぎです。別に言ったことがすべて正しいわけじゃなくて、いま言ったことをとりあえず楽しめばいいじゃないですか。悪いクセですよ、すぐ調べるっていうね。これがね、ホント笑いを狭めてる」(『しくじり先生 俺みたいになるな!!SP』2016年6月27日)

 

 内山は指摘する。最近の人たちは「答え」をすぐに調べすぎる。「アレなんやったっけ?」という「問い」の「答え」を検索で確定してしまい、「答え」があやふやなまま進行するトークを楽しめない。だから、さんまは嘆く。

 

「正論はいらんねん。正論をタテにしゃべるなんて、トークじゃない」(『さんまのまんま』2014年10月5日)

 

 「答え」は、トークのプロセス自体にある。どこか自分たちの外にあるのではなく、自分たちの中から生み出していくものだ。そして、「答え」の妥当性は「正しさ」ではなく「楽しさ」で測られる。そんな倫理が、さんまを貫いているように見える。「正論」や「論破」や「エビデンス」に拘束されるコミュニケーションからの解放。そんなものを、読み取ってしまいたくもなる。

 

 ただ、この倫理を過度に適用すると、また違った拘束が生じそうだけれど*1……それはまた、別のお話。

 

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 冒頭の「問い」に戻ろう。佐藤二朗は人間か、男か、ブサイクか。息子が出したこの3択の「答え」は何か。さんまの話をふまえるならば、この3つ以外のところにも「答え」はある。他愛のないクイズを出し合うような、父親と息子のやり取り。あるいは、そんな関係を築いてきたプロセス。「答え」はむしろ、そこにあるのかもしれない。

 

 息子の3択にどう答えるのか。近江アナが尋ねると、佐藤は「全部正解」と笑った。

 

*1:「楽しさ」の「正しさ」への反転とか、「コミュ力」による序列化とか、「空気」による拘束とか。