先週みたテレビと可逆/不可逆な時間(2月20日~26日)
『5時に夢中!』(2月21日)
ゲストコメンテーター・平野ノラの過去の出演VTRをみて。ふかわ「あまり動きに進化はなさそうですね」 平野「そうですね。ちょっと眉毛が細くなったぐらいでね」「肩パットの方もちょっとずつ綿抜いてます」/『5時に夢中!』2/21
— 飲用 (@inyou_te) 2017年2月21日
男の若手芸人が売れると顔がちょっとふっくらする。
女の若手芸人が売れると髪がいくぶんサラサラになる。
そんな風に思っていたのだけれど、
平野ノラは売れてからまず眉毛が細くなった。
バブル芸人は徐々に90年代へと時代を進めていた。
他方で、平野ノラのネタのなかには、バブル以前の固有名詞が混ざることがある。
それはツッコミ待ちの少しズラしたネタなのかもしれないのだけれど、
たとえば少し前の『お笑い向上委員会』では、
ネタのなかにプロボウラーの中山律子の名前が出てきた。
バブル芸人はしばしば70年代へと時代を遡っている。
なのでそのうち平野ノラは、
「しもしも? 力道山?」とか言うかもしれない。
「クラウン転がしてきました」とか言うかもしれない。
「かえしてよ! 私のヒロポンかえしてよ!」とか言うかもしれない。
さらに時間を遡ると、
「しもしも? 中大兄皇子?」とか、
「牛車転がしてきました」とか、
「かえしてよ! 私の醍醐かえしてよ!」とか言っているかもしれない。
最終的には「卑弥呼さまー!」と叫んでいるかもしれないし、
コーラを一気飲みして山手線の駅名を言っているかもしれない。
春にしてバブルから滲み出して時をかけるノラを想う。
『ミュージックステーション』(2月24日)
タモリ「小沢健二くん20年ぶりです」 小沢「なんか、前世にかえったみたいです」/『ミュージックステーション』
— 飲用 (@inyou_te) 2017年2月24日
基本的に田舎者のぼくは、
1990年代の小沢健二をほぼスルーし、2000年代になって遅れて聞き始めた。
だから先週、小沢健二が『ミュージックステーション』で歌っていたけれど、
そしてそれは20年ぶりの出演だったらしいのだけれど、
終了直前の『笑っていいとも!』での弾き語りは別として、
「小沢健二が歌番組で歌うのをちゃんと聞く」というのは、
実のところ先週がはじめてなのでした。
間違いに気づくことがなかったかどうかは別にして、
平面上のテレビのうえでぼくたちの複数の世界と時間は並行している。
躍動する流動体。炸裂する蜃気楼。
で、そんな風に1990年代を10年後・20年後に初体験する者がいる一方で、
『Mステ』冒頭でタモリに「20年ぶりです」と話を向けられた小沢は、
「なんか、前世に帰ったみたいです」
と応えていた。
小沢健二は時をかけるどころか、人生の位相をかけていたのでした。
『オイコノミア』(2月22日)
又吉「ボクは謝罪の能力もそうですけど、人を許すっていう能力を磨きたいですね」/『オイコノミア』2/22
— 飲用 (@inyou_te) 2017年2月26日
もちろん時間は不可逆である。一方通行である。
レモンをかけた唐揚げが、もう二度とカリカリに戻らないように。
ドラマ『カルテット』が、そろそろ何かしらの終止線を描いて終わってしまうように。
で、不可逆であるがゆえに、
時間が絡んだぼくたちの言動は、しばしば取り返しがつかないことを招く。
だからこそ、謝罪があり、許しがある。
取り返しのつかなさの前で、動けなくなることなく、何かをまた始めるために。
そんなふうに言われる。
だけれども、少し前まで、
「アメリカは訴訟社会だから自分に非があっても絶対謝らないらしいよ」
というような言い方が、
「日本とはちがって」という自虐と自尊がないまぜなメッセージを暗に含みつつ、
よくになされていたと思うのだけれど、
いつの間にか日本でも、少なくともテレビの画面の上では、特に政治の場面で、
「謝ってはいけない」というような雰囲気が強くなっているような、
そんな感じもする。訴訟社会になってる気はしないけど。
先週みたテレビでは、人生の位相をかけていた小沢健二が『NEWS ZERO』で、
「謝る」ということについて、次のように言っていた。
小沢「いまのアメリカの後を追っているグローバル社会っていうのはなんか、謝るのはダメだ、謝ることは自分の否を認めて責任が発生するから謝らないようにしなさいみたいなことがあって。ボクは日本に来てみんながおじぎをしているのはすごくいいことだと思っていて。自分はそんな大した存在じゃないっていうのを思っているっていうのは、すごく大事なことだと思うんですよね」*1
他方で、芸能スキャンダルのようなものがあると、
「謝る」ことを他者に強く求めるものの、
「許す」ことが伴わないケースも、目立つような気がする。
「許さない」というかたちでいつまでも対象に偏執する者も、
またよく目にするような気がする。
変質者ならぬ偏執者をよく目にするような気がする。
先週みたテレビでは、「謝罪の経済学」をテーマにしたEテレ『オイコノミア』で、
ゲストとして出演していた華丸大吉が、次のように言っていた。
大吉「芸能ニュースとかみてたら、謝ったら『謝って済むのか』と言われ、ちょっと出てきたら『どんな顔して出てきやがった』と言われ、しょんぼりしてたら『じゃあ出てくるな』って言われ、明るくなったら『もう反省してないのか』って。無限ループですよね、あのゾーンに入ってしまうと1回」*2
で、番組では、経済学の観点から、
いかに効果的な「謝罪」をするか、という知見が積み重ねられていたのだけれど、
エンディングでコメントを求められた番組レギュラー又吉直樹は、
「ボクは謝罪の能力もそうですけど、人を許すっていう能力を磨きたいですね」
とひっくり返すのでした。
テレビの画面のうえでは時として、
「謝る」ことが避けられたり、「許さない」ことが目立ったりしているかもしれない。
グローバルに展開する神の手の中にあるかどうかは別にして、
そんな画面の上でその時々にできることは、
たとえば又吉のように、
宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう。
いや、決意とかそういう大仰な話ではないかもしれないけど。