博多大吉と伊集院光がつくるクイズ:先週みたテレビ(1月18日~24日)
『華丸・大吉25周年記念祝いめでたSP』KTV(1月24日)
大吉「酔っ払ったら必ず岡村くんに言うんやけど、ナイナイの2人が90年代に最初からいまのバラエティ業界にガンッてつかまっててくれたから、いまの若手芸人は全員仕事があると思ってるから。ホントなんかね、神社つくろうかなと思って。奉納したい」/『祝いめでたSP』KTV 1/24
— 飲用 (@inyou_te) 2016, 1月 25
ものごとが世の中に定着するということは、
その起源がわからなくなるということである。
すべてのものにあるはずの起源があいまいになり始めるとき、
それはあたかも最初から世の中にあったもののようにみなされ始める。
たとえば、博多華丸・大吉の大吉が「大吉先生」と呼ばれ始めたのは、
たしか『アメトーーク!』の収録外でプロデューサがそう呼んでいたのが、
収録中にも芸人の間でも使われるようになった、みたいなことだったと思う。
けれど、そんなことは一般的にはあまり共有されていない情報だし、
ぼくにしてもそれがいつごろのことだったかということになると、
もう記憶の彼方のあいまいなところに移行してしまっている。
博多大吉が「大吉先生」なのは、テレビの中ではもはや始まりを欠いた日常である。
そんな大吉先生と楽天カードマンのコンビ、博多華丸・大吉の結成25周年番組が、
先週24日に関西テレビで放送されていた。
もともとは、福岡のテレビ西日本で去年の12月1日に放送された番組らしい*1。
で、この番組のなかで、
同期のナインティナインの2人と華丸・大吉が博多の屋台で飲みながら話す、
みたいなパートがあった。
そしてそこで、4人の間で次のような言葉が交わされた。
岡村「たけしさんにさ、『なんでアンちゃんたち出ないの?』って言われたんが、(『THE MANZAI』に出た)きっかけでしょ? 励みになるでしょ、たけしさんに言われると」
大吉「でも、ボクはやっぱナイナイがMCやってるから出たし、やっぱ2人に恥かかせられないじゃない。同期で出てきてスベるわけにいかないし」
矢部「もう…もう、オマエカッコええな」
華丸「(相方は)“広辞苑”なんよ。全部正解だす」
岡村「“先生”超えたな」*2
バラエティ番組のなかですでに中堅としての地位を確保していた博多華丸・大吉が、
出場制限がないとはいえ若手の賞レースとしての色合いが強い『THE MANZAI』に出場したのは、
大会最高顧問(当時)だったビートたけしが、
「なんであんちゃん達(大会に)出ないの?」と2人に言ったから、
みたいなことはWikipediaの「博多華丸・大吉」のページに書いてあったりもすること*3。
ここで岡村が指摘しているのはそのことなのだけれど、
それを受けて大吉は、
「ボクはやっぱナイナイがMCががやってるから(大会に)出た」と返すのだった。
そしてさらにそれを受けて、相方の華丸は、
すべてにおいて「正解」を出す大吉を「広辞苑」に例えるのだった。
『100分de名著』(1月20日)
伊集院「ボク、クイズ番組いっぱい出てるじゃないですか。クイズ番組でも、ただただクイズなだけのクイズと、解く楽しみのためにあるクイズってあるんですよ。後者をつくるクイズを書くライターのかたたちっていうのは、なんかボクはすごく尊敬するんですよ」/『100分de名著』1/20
— 飲用 (@inyou_te) 2016, 1月 20
どんなときにでも「正解」を答える男は、
もはや「先生」を超えて「広辞苑」と呼ばれるに至ったわけだけれど、
「正解」を答えることをめぐるあれやこれやを中心にお送りされる番組といえば、
クイズ番組である。
で、先週20日の『100分de名著』で、MCの伊集院光がクイズ番組について言及していた。
いわく、クイズ番組には、「ただただクイズなだけのクイズ」と、
「解く楽しみのためにあるクイズ」の2種類がある。
これはたとえば、『クイズダービー』のレギュラー出演者を務めた篠沢秀夫の、
「上品」なクイズと「下品」なクイズの対比にも通じるところがある*5。
さて、伊集院の言及は、今月の本*6、内村鑑三『代表的日本人』のなかの、
「学者とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない」
「いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない」
といった論考を受けてのものだったのだけれど、
なるほど、ただただ「学識」の有無のみを問題にするのではなく、
何かひとひねりを加えなければ解けないクイズを考えるという営為に、
それを「徳」という言葉で表現できるのかどうかはおいといて、
なにか「尊敬」に値するようなものを感じることはできるかもしれない。
あるいは、番組では同書のこのような論考を、
解説の先生がソクラテスの「無知の知」に引きつけながら説明して、
つまり、「私は本当には知らない」ということを知ることが、真に知ることである、みたいな、
そういう経験を通過することに近いのではないか、みたいな話がなされたのだけれど、
それを受けて伊集院は、自身の次のような経験を回顧するのだった。
伊集院「ある時期、学校が凄い嫌いになった理由のひとつですけど、勉強すればするほどわかんねぇことが増えるっていう、要するにそれがもの凄い矛盾してる、もう無限地獄みたいに感じたんですよ。だけどちがう、(いまの「無知の知」の話をふまえると)それがむしろ正しくて、知りきらないのだから謙虚に進んでいきゃいいっていう」*7
この番組での伊集院は、
哲学だったり文学だったり科学だったりの少しややこしい話を、
自分の経験に(特に思春期の経験に)置き換えて翻訳するのが本当にうまくて、
それこそ本について語りながら、「解く楽しみのためにあるクイズ」を解くさまを、
あるいは、本や自分の内側から「解く楽しみのためにあるクイズ」をつくり上げるさまを、
テレビの向こう側に語り示しているような、そんな気がする。
今回のこの例示もまた示唆に富むもので、
ここで語られた伊集院の経験と気づきをふまえるならば。
学校で勉強するという行為の大部分は「学識」を蓄えることにあるのだとしても、
その先に「勉強すればするほどわかんねぇことが増える」という臨界点が待ち受けていること、
そこで何かひとひねりを加えることが「無限地獄」とは別の道をひらくこと、
そしてその道を歩むとき人は「謙虚」になるのだ、というようなことが、
示唆されているように思える。
さて、ここで改めて博多大吉の話に戻るならば、
なるほど、さまざまな出来事に関して「正解」を答えるとされる彼にとっても、
その営為は目の前の出来事を「ただただクイズなだけのクイズ」ではなく、
「解く楽しみのためにあるクイズ」へと読み替えていく姿勢とともにあるのかもしれないし、
自分が示した「正解」が必ずしも最終的な正解ではないことを知っていることが、
「上品さ」や「謙虚さ」の所以と言えるかもしれない。
*1:華丸・大吉25周年記念 祝いめでたSP | テレビ西日本
*2:『華丸・大吉25周年記念祝いめでたSP』KTV(1月24日)
*4:『THE MANZAI2014』2014年12月14日
*6:『100分de名著』は、毎月1冊本をとりあげて、25分番組×4回=100分の放送で、解説者とともに読み解いていく番組。